Hush-Hush: Magazine
ザ・ボーイズ シーズン5

ザ・ボーイズ シーズン5

ホームランダーは神ではない

わたしは神だ。
こんなことを真顔で言って悪役として成立してしまうキャラクターが、これまで何人いただろうか。
ホームランダーの話である。

Amazonプライムビデオの看板ドラマ『ザ・ボーイズ』がシーズン5をもって完結した。シーズンを重ねるごとにホームランダーはトランプ化し、現実の世界ではトランプがホームランダー化していった。現実とフィクションが互いを参照し合いながらフィナーレを迎えた、卦体な海外ドラマだと思う。

ロッテントマトやImdbなど、各レビューサイトでは竹を割ったように評が割れている。幹竹割りもびっくりなほど、見事なまでに視聴者と批評家の評価が乖離している。ロッテントマトでポップコーンメーターが低くトマトメーターが高い作品は、アート系映画だと相場は決まっている。だが、『ザ・ボーイズ』にアート系映画の「ア」の字もない。キミコをしてポルノワードを連発させるお下劣コメディ・ドラマである。アートもへったくれもあったもんじゃない。

おそらく大多数の視聴者は、広げすぎたプロットを回収しきれずに終わった、尻すぼみな幕切れに対して不満を抱いているのだろう。一方、スノッブでディレッタントな海外の批評家は、いつしか比喩であることを止め、完全に現実の米国政治の鏡像と化したホームランダー=トランプをめぐる暴走っぷりに溜飲を下げ、悦に入っていると思われる。いずれにせよ、かなり投げやりな終幕だったことは否定できない。

シーズン1〜3にかけて、トランプの戯画化は暗喩として機能していた。それがシーズン4以降、「トランプ的なもの」はいつしか「トランプそのもの」に前面化し、かつて比喩だったものは現実を直接参照する記号に挿げ替わった。おそらく、このあたりの作風の転換にはショーランナーのエリック・クリプキがシーズン3以降、自ら脚本を書いていないことが関係していると思うのだけれど、真相はわからない。

最終シーズンを観ている間、僕は絶えず既視感に襲われていた。YoutubeチャンネルのPIVOTやプライムニュースで観た/聞いたような出来事が、ホームランダーの周囲で現出していたことに。SNLのコールドオープンのスケッチにおいて、ジェームズ・オースティン・ジョンソン扮するトランプの言動とホームランダーのそれがぞっとするほど近似していることに。

ホームランダーが狂えば狂うほど、現実で観た/聞いた言説を記号として画面の中で見つければ見つけるほど、自分が今ドラマを観ているのかニュースを観ているのか、わからなくなった。それほどまでに、『ザ・ボーイズ』シーズン5は現実の米国内政情をそっくりそのまま投影している。

正直に言えば、僕はシーズン4から最終話直前に至るまで、『ザ・ボーイズ』を面白いとは思えなかった。シーズン1〜3とシーズン4以降では、両者の間に劃然たる溝が横たわっている。(まぁ、まったく期待していなかったシーズン5の最終話が殊のほか良かったので、終わりよければ…という気もするけれど)

『ザ・ボーイズ』が陥った変化は何だったんだろう。

相手に反論を許さない状況で、批判する対象を一方的に嘲笑し、相手を見下すことで相対的に自分のほうが上位に立ったように錯覚する。根本的な問題は何ひとつ解決も議論もされていないのに、まるで自分が偉くなったかのように錯覚し、安堵する。これって何かに似てないか。SNSじゃねぇか。

かつて押井守は自身の劇場デビュー作『うる星やつら オンリー・ユー』を評して「でっかいテレビ」だと言った。いうなれば、『ザ・ボーイズ』シーズン4〜5は「でっかいSNS」だ。SNSで日夜行われている不毛な言語ゲームの拡張版。批判の対象と、それを批判する主体が同じ足場に寄りかかっている状況。

これは何も『ザ・ボーイズ』に限った話でもない。アレックス・ガーランドの『シビル・ウォー』、ポン・ジュノの『ミッキー17』、アリ・アスターの『エディントン』、ランティモスの『ブゴニア』…近年のハリウッド映像作品に共通する傾向でもある。まるで米国の映像作家たちがいっせいに罹患したかのように、同じ症状を呈している。僕は最近この症状に名前をつけることにした──「映像産業のSNS化」だ。

映像産業のSNS化という症状

シーズン5の物語は、こんにちのSNS空間そのものを主題化している。平然とした顔で自らを「神だ」とのたまうホームランダーは「自由のための自由法」なる法律を議会で可決・施行し、スターライト派を逮捕・収容所送りにする。ヴォート社の会議室でスターライト派の検挙状況を説明するファイアークラッカーの背後には米国の地図が示され、スターライト支持者の位置が輝点(プリップ)によってマッピングされている。輝点が蝟集している地域はニューイングランド地方と西海岸、つまり民主党支持者が優勢な都市部だ。ホームランダーとホームランダーが比喩ではなく等号記号(=)で接続可能なように、スターライトと民主党もまた相互に入れ替え可能な対象として描かれる。

ファイアークラッカーがアンカーを務めるニュース番組はFOXニュースそのものだし、ホームランダーが大統領執務室(オーバルオフィス)を我が物顔で闊歩する光景は、トランプ大統領就任直後、子供を連れて彼の「仕事部屋」を訪れたイーロン・マスクの焼き直しだ。

現実の政治情勢を皮肉って、比喩を使うことで迂回するのではなく、直接それだと指さすことで比喩であることすら放棄する、居直った態度。これは構わない。合衆国憲法修正第一条で保証されているように、米国には表現の自由があるのだから。問題はここから先にある。

シーズン5はSNS的なもの・トランプ的なものを批判しようと肩肘張りすぎた結果、批判する主体つまり自分自身が批判対象と同じ振る舞いをしていることが問題なのだ。

たとえば、疎遠だった父親とスターライトが再会する場面。スターライトの父親は再婚し、再婚相手との間に息子がいる。彼の家の前庭にはトランプ支持ならぬホームランダー支持を示す旗が等間隔で並び、彼の息子はTikTokでホームランダーを称揚するショート動画を死んだ魚のような目で眺め続け、その動画の内容を鵜呑みにしてスターライトを否定する。

ホームランダーとトランプがニアリーイコール(≒)で結ばれた比喩ではなく、イコール(=)で結ばれた記号であるならば、ここで描かれている状況を読み解くと、ホームランダー支持者=トランプ支持者=TikTokが情報源のリテラシーが低く、感情的で、オツムの弱い奴、ということになり、それを取り繕うわけでもなく平然と描くことは、SNSでトランプ支持者の投稿を引用して「LOL(笑)」とバカにするのと本質的に同じことだ。

そうしてホームランダーをトランプそのものとして参照し、極限まで茶化し、嘲笑したバランス調整として、中盤のエピソードではセス・ローゲンをはじめとする西海岸のリムジン・リベラルたちがソルジャー・ボーイによって惨殺される。

「トランプをフルボッコにするだけじゃないぜ。俺たちちゃんとわかってんだぜ。トランプと違ってラブ&ピースが信条だからな!」という脚本家ないし製作者の声が聞こえてきそうなほどあからさますぎるバランス調整。

これでケンカ両成敗だとでも…

セス・ローゲンと実在の俳優やコメディアンがミスター・マラソンの邸宅で雁首そろえてポーカーに興じる場面で、彼らは業界の新たなムーブメントをハッシュタグ運動として展開しようと画策しあう。その直後、ホームランダーを挑発し、子を侮辱された父親ソルジャー・ボーイの逆鱗に触れて、彼らは肉片と化すことになる。

SNSでミームを武器化することでMeTooに続くムーブメントを仕掛けようとする西海岸の映像産業の従事者が、トランプの家族=ソルジャー・ボーイに虐殺される。製作者による自虐ネタというか、業界人によるハリウッド業界批判というか…いずれにせよ、ここで製作者がやり玉に挙げているハッシュタグ運動やら武器化されたミームという対象が、そっくりそのまま『ザ・ボーイズ』シーズン5それ自体に当てはまることが問題なのだ。

製作者がこの自家撞着に意識的なのか無意識なのかはさておき、この場面で自己批判として機能するはずのミームやハッシュタグは、『ザ・ボーイズ』シーズン5をめぐる現実のSNS言論で駆使されている技法にほかならない。最新話が配信されてから数時間後にはホームランダーの場面がミーム化されてXのタイムラインを駆け巡り、シーズン全体が巨大なミームの塊として、ハッシュタグとして消費されたのが『ザ・ボーイズ』シーズン5ではなかったか。自己批判を試みたその対象が、そっくりそのまま自分自身に跳ね返ってくるというトートロジー。

シーズン1〜3まで現実の政情は「迂回」して扱われていた。シーズン4・5のように、加工されず生のまま画面のなかで提示される「記号」としてではなく、現実を迂回するための「比喩」として、前1〜3シーズンでは政治情勢が援用されていた。いつの間にか、その迂回路が完全に消えてしまった。風刺は対象との距離を必要とする。対象に直接言及することなく、あえて迂回するからこそ、風刺は風刺として機能する。対象との距離がゼロになった時、風刺は単なるデーターベースの参照になる。

シーズン4・5で行われているのは現実の米国政情というデーターベースを参照し、それをそのまま無加工で提示することだ。何の虚飾も誇張もない、ありのままの現実を記号化して作品のなかに散りばめること。まるで「ウォーリーを探せ」のように、画面の中で見つけてもらうことを前提とした、隠す気もない記号を視聴者に発見させ、何かがわかったかのように錯覚させ、気持ちよくさせること。正しい映像作品の消費が何なのか、浅学な僕にはわかりませんが、これが正常ではないことは火を見るより明らかでしょう。

信仰の対象が挿げ替わるとき

シーズン5全体を貫くモチーフとして宗教がある。
第5話、ファイアークラッカーは幼少期から大切にしてきたイエスのフィギュアをゴミ箱に投げ捨てる。自分にとっての神とは何なのか。幼少期、かつて敬虔なクリスチャンだったファイアークラッカーは、神を僭称するホームランダーを巡って自身の信仰心を大きく揺さぶられる。ホームランダーが神だとするならば、イエスとホームランダーどちらが「より上位」の神なのか。イエスに対する信仰心とホームランダーに対して抱く恐れを含んだ盲従は同じなのか。幼少期に抱いていた信仰心と今の自分が抱いている信仰心は、どう違うのか。ファイアークラッカーの心は揺れ動く。

彼女はイエスのフィギュアを固く握りしめ、それをゴミ箱に投げ捨てようとして逡巡する。長い逡巡を経て、彼女はついに思い切ったようにイエスをゴミ箱に放擲する。その直後、彼女はイエスに代わる新たな神と見定めたホームランダーの手によって、あっけなく事切れる。

ここでの核心は、ファイアークラッカーの信仰心の中身だ。彼女が求めていたのは敬虔な信仰そのものではなく、自身の拠り所たりうる何かだった。不安を拭い去り、無窮の安心感を与えてくれる存在──希望。幼少期の彼女にとってそれはイエスであり、長じて能力者となった彼女にとってはホームランダーがそれだった。世俗化が進んだアメリカで、希望を失った人々が拠り所として信仰に目覚める…奇しくも同時期に配信されているHBOドラマ『Euphoria/ユーフォリア』シーズン3もまた「信仰」を基調に据えている。「信仰」が2026年を俯瞰する1つのキーワードになりつつあるように思う。

スタン・エドガーの復帰と資本主義リアリズム

ヴォート社の元CEOスタン・エドガーは葉巻をくゆらせながらMMに向かって不穏な言葉を投げかける。

「ホームランダーが、能力者がいなくなっても、ヴォートは存続する」

そして、自らその言葉を証明するかのように、最終話のエピローグで彼はヴォート社CEOの座に復帰を果たす。ホームランダーやソルジャー・ボーイといった個々の能力者は交換可能な存在に過ぎない。たとえ目から殺人ビームを照射する「力(power)」を持った能力者とて、ヴォートが企業体であり、利益追求組織である以上、資本主義の束縛からは自由になれない。その意味において、能力者たちはヴォートという企業体の所有物であり、その企業もまた資本主義という巨大なシステムに所有されている。つまり、能力者は「力(power)」を持つことはできるが、まったき「権力(power)」は手にすることができない。たとえ能力者が滅びようとも、ヴォート社は利益を追求し続け、能力者にかわる「商品」を開発し、資本主義は存続する。

かつてマルクスは『資本論』のなかで「資本家とは人格化された資本であり、意志と意識を与えられた資本である」と書いた。スタン・エドガーが語るテーゼもこれに近い。能力を人格化したホームランダーが滅びても、資本を人格化したスタン・エドガーは別の人格に乗り代わって延命する。

エピローグの場面でスタン・エドガーがCEOの座に返り咲いた時、それまで散々ホームランダーによる暴政を見せつけられた僕たちは「ようやく大人が戻ってきた」と安堵してしまう。だが、この幕引きもじつに憎たらしい展開である。第一期トランプ政権後、バイデンが大統領に就任したとき、リベラル系のメディアは異口同音に「大人が帰ってきた。安心だ」と口にしたものだった。この一致を偶然と片付けるには、僕たちはあまりにも多くの「トランプそのもの」を観せられ過ぎた。現実の政情をデーターベース的に参照する態度を隠そうともしないシーズン5の最終話、その幕引きでバイデン就任時と同じカタルシスを用意することで、いや、そうして現実の政治をトレースすることでしか、製作者たちはSNS化した物語を終わらせることができなかったのだろう。

比喩から記号へ──物語的想像力の死

シーズン1から3にかけて、『ザ・ボーイズ』が扱う政治は比喩(アナロジー)だった。ストームフロントはナチという記号を経由することでトランプ現象を扱う、ワンクッション置いた「比喩」として機能していた。シーズン4・5ではこの緩衝材が消失し、1月6日議会議事堂襲撃事件、プロジェクト2025、福音派、テクノ・リバタリアン──こうした現実の記号を無加工のまま記号として採用した。

現実の政情というデーターベースを記号的に消費する。東浩紀さんが『動物化するポストモダン』提唱した「データーベース消費」が、ここでは現実政治の消費として再演される。僕たち視聴者は、もはや物語ではなく、「これマスクじゃね?」「これトランプのあれじゃん!ニュースで見たやつ」という記号探しのゲームに没頭する。批判する対象である現実の米国政治が、作中の状況を追い越し、追い越された虚構のほうが今度は現実政治を参照する。まるでウロボロスだ。

おそらくMCUというスーパーヒーロー映画のフランチャイズを、スーパーヒーロー映画の形式を使って、メタ的に批判するという『ザ・ボーイズ』本来の持ち味は、シーズン2第8話──キミコ、スターライト、クイーン・メイヴがストームフロントを袋叩きにしたあの瞬間を境に失われてしまったのだ。エンドゲーム以降MCUが下火になるにつれて、ヒーロー映画フランチャイズの形式を援用してヒーローもの、そのものを批判するという当初の戦略は機能不全に陥り、当初の戦略目標を喪失した『ザ・ボーイズ』は、政治的な記号操作のゲームへと新たに目標を定め直すほかなかったのだ。

映像産業のSNS化──それはおそらく本作だけの病理ではない。現実の政情が混迷を極めるにつれて、今後も「でっかいSNS」としての映像作品は生まれ続けるだろう。

フィクションの中でまで現実の政治を、現実の混乱の続きを見せられること。

まるでつけっぱなしのテレビから流れるニュースに影響されてしまうように、たまたま開いたLINEニュースの興味はないけれど見出しを読んでしまったニュースに集中力を奪われるように、望まないノイズに晒されることへの疲労感。スマホを触っていてしばしば感じるこの種の疲労感と同じものを、僕は『ザ・ボーイズ』シーズン5を観ている時に感じた。

政治や世界に無関心を決め込むのは無責任だとは思う。けれど、それを映像作品で、虚構のなかで現実のシミュラクラを再演する必要性はあるんだろうか。

そういう役割は本の方が向いているような気がするのは、僕だけですか…
ちくま新書でよくないですか…

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