『閃光のハサウェイ キルケーの魔女』
大義なきテロル
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COVID-19のパンデミックと相前後して公開された劇場アニメーション『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』。公開されるや新旧ファンから絶賛を浴び、日本中のガノタが続編への期待に胸を膨らませたガンダム映画。その後、公式から続編のアナウンスは一向になされず、ネット上ではコロナ禍の影響で海外ロケが遅延しているだの、クオリティーを高めるために制作期間に余裕を持たせているだの、様々な憶測が飛び交った。一時は頓挫したかと思われた『閃光のハサウェイ』はしかし、前作から5年の歳月を経て続編公開に漕ぎ着けた。
満を持して公開された第2作目、『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』 公開初日に観てきた。すでに3回、劇場で観てしまった……
5年間で漸進的に高まり続けた期待値を軽々と超えてくる素晴らしさ。
映画だ。アニメーション映画である以前に「映画」だった。
言葉から溢れた落ちた言外のニュアンスをキャラクターの細やかな芝居によって表現するという正統な劇映画の演出手法。リアル等身のキャラクターをリアルなパースで描かれた背景に配置し、カメラレンズを意識したレイアウトで切り取る映像設計。尋常ならざる描き込みがされたリッチな作画を陰影によって容赦なく塗りつぶしてしまう、その贅沢な演出的選択。 作品の随所に散りばめられた演出の技巧。それが集積することで立ち上がる「映画らしさ」。原作小説の富野エッセンスはそのままに、細やかな芝居を積み重ねることで「劇映画」たらんとする本作の態度は、1作目の時からストイックさを増している。
思い返せば、『閃光のハサウェイ』は1作目からすでにアニメの範疇に留まらず、「劇場映画」であることに意識的だった。押井守が言うところの「でっかいテレビ」ではなく、劇場のスクリーンで上映されることを前提とした、大画面で視聴されることを前提とした「劇場アニメーション映画」。 1作目でモビルスーツが市街地を蹂躙する時、そこで強調されるのは逃げ惑う市民と巨大な二足歩行兵器としてのモビルスーツ、両者のスケールの対比だった。巨大な兵器を前にして、人間に為す術はない。ひたすら圧倒され、蹂躙され、逃げ惑うよりほかにない。ここで人間の無力感が際立つのは、劇場のスクリーンに映し出されたモビルスーツの巨大さと僕たち観客の矮小さが呼応するからだ。
『キルケーの魔女』では、1作目で開陳したテクニカルな演出をさらに洗練させ、深化させている。演出の面では間違いなく1作目と地続きなのだけれど、2作目には前作と決定的な差異がある。それは原作小説からの離脱だ。
原作の改変ではなく「離脱」と書いたのには理由がある。 富野由悠季が書いた小説のなかでも最高傑作との呼び声も高い『閃光のハサウェイ』を映像化するためには、劇映画として映像化するためには、いちど富野由悠季から「離脱」する必要があった。原作を上書きするという意味で「改変」するのではなく、富野節120%で構成された原作小説に新たな解釈を施し、技巧的な演出を駆使することで、富野由悠季という巨大な父性から、一度「離脱」する必要があった。
終盤で展開される『逆シャア』のリメイクシーンは、単なるファンサービスではない。 劇場映画版『閃光のハサウェイ』3部作が、富野由悠季という巨大な父性から「離脱」を試みた、その結果なのだ。
■三部作という放物線 1作目は原作小説に忠実だった。忠実すぎると言っていいほど、原作小説をほぼ完璧に模倣し、映像化することに心血を注いでいた。まるで演出指示書のように小説を読み込み、地の文をト書きに読み替え、原作小説を忠実に模倣することで、1作目は「古いけど新しい」ガンダムとして見事なまでに完成されていた。 あの律儀なまでの原作への忠実さはどこへやら、『キルケーの魔女』は開巻から原作小説を「離脱」している。原作小説では組織内の配置変えによって自然にフェードアウトしていたケリアは、映画版ではハサウェイへの当て付けとして剃髪し、中盤には新海誠よろしくMV演出が施され、彼女を失ったハサウェイの喪失感が強調される。
上映が終わって映画館を後にしながら、僕はぼんやりと考えていた。原作小説への忠実さで構成された1作目から、やおら距離を置こうとするこのムーブは何なのかしら、と。
それは富野由悠季という巨大な父性からの「離脱」であり、ハサウェイの破滅に向かう準備段階、つまり「跳躍」なのではないか。映画版『閃光のハサウェイ』3部作は、放物線の軌道に対応しているのではないか。原作小説に忠を誓った1作目は、飛翔するために大地を踏みしめ、力を溜め込む段階。次ぐ2作目は、溜め込んだ力を解放し、空へ跳躍する段階。そして来る3作目は、重力に絡め取られ、落下する段階──破局。
振り返ってみれば、1作目があれほどまでに原作小説を忠実になぞっていたのは、模倣することが目的だったからではない。高く跳躍するために、重心を下げて膝を曲げ、ぐっと力を溜め込む予備動作だった。原作小説という大地を足蹴にすることで、大きく跳躍するための準備運動。それが1作目の律儀なまでの「忠実さ」だった。
2作目で原作からの変更点が一気に増えたのは、放物線を描いて跳躍するための推進力が必要だったからだ。ケリアの剃髪、量産型νガンガムの投入、『逆シャア』のリメイク映像……いずれも原作小説には存在しない。(原作小説第2巻の最終決戦にはνガンダムはおろか、エレン・エイムすら登場しない。ケッサリアとグスタフ・カール数機がクスィーガンダムに翻弄される、あっけらかんとした幕切れで終わる)
エンディングテーマのGuns N' Rosesの「Sweet Child o' Mine」(この楽曲使用料だけでいくらかかってるんだ)が醸し出す、『閃光のハサウェイ』らしからぬ爽快感も、放物線の頂点のイメージと一致している。高く跳べば跳ぶほど、落下した時の衝撃は大きくなる。今作でハサウェイにアムロという「父殺し」を代行させ、ギギと束の間のロマンスが成就するのは、ハッピーエンドの予兆では決してない。3作目でハサウェイが壮絶な最期を遂げるとき、その悲劇性を最大化するための残酷な助走なのだ。
■腐敗した重力に支配された世界 村瀬監督は1作目から「重力」の表現に異様なこだわりを見せてきた。頬をつたう汗、服の皺、階段をのぼる時の大腿筋の伸縮、市街地に降り注ぐモビルスーツの巨大な空薬莢。『キルケーの魔女』においても、ギギがかの悪名高い台詞を吐き捨てた後、激昂したメイスが階段を降りる場面では、彼女の動作がわざわざ1コマ打ちで作画されている。まるで理想を押し潰そうとする現実の重さを視覚化するかのように、村瀬監督は「重力」に対し、異様なこだわりを見せる。
地球に生まれ、地球で育ち、そして死んでいく僕たちには当たり前のことだけど、地球に暮らす以上、誰ひとり重力からは逃れられない。マフティーも例外ではない。そこに暮らす人々にアプリオリに課された呪縛という点において、地球連邦の特権階級たちが占拠する地球、そこで作用する重力とは、権力のことに他ならない。かつて米国の犯罪小説家ジェイムズ・エルロイが喝破したように、「権力が腐敗するのではなく、腐敗こそが権力」なのだ。地球連邦の腐敗=権力という名の重力が、地球全土を覆い尽くしている。
■テロルの私有化 ハサウェイ、ギギ、ケネス…3人の主要人物は、それぞれのやり方で腐敗しきった重力圏に敗北している。ケネスは体制の腐敗を知悉したうえで、あえて従う。連邦軍という組織のなかで有能な歯車として機能することを選ぶ。この面従腹背を大人の成熟と捉えるか、妥協と捉えるかは、観る人の年齢によって異なるような気がする。ギギはパトロンのバウンデン・ウッデン伯爵に身体を明け渡すのと引き換えに、一定程度の富と自由を得ている。寄生することによって金銭と幾ばくかの自由を得る。宇宙移民時代におけるパパ活がここにある。そしてハサウェイは、自分が利用されていることにも気づかず、マフティーという役割を演じ続ける。
マフティーは矛盾を抱えている。全人類を地球から脱出させ、重力から解放することを標榜しながら、連邦軍の英雄ブライト・ノアの息子という血統によってハサウェイは地球の居住許可を与えられ、植物観察官候補生という身分で移動の自由を与えられ、クワック・サルバーに与えられたクスィーガンダムで自由闊達と空を駆け巡る。マフティーのテロリズムとは、安全圏から介入する特権階級の道楽に過ぎない。テロ組織マフティーの黒幕クワック・サルバーが地球連邦軍の所属である以上、ハサウェイはクワック・サルバーの政敵を排除する道具として、政治闘争に利用されているかもしれず、その可能性に無自覚な点が、ハサウェイの平凡さ(シャアやアムロとの違い)を露呈する。
Planets編集長、批評家の宇野常寛さんがyoutube動画の中で『キルケーの魔女』はハサウェイの実存の問題を描いている、と指摘している。シャアにもアムロにもなれない、ニュータイプにもなれない、自分が政治利用されている可能性にすら思い至らない「平凡」なハサウェイが、自身の凡庸さを受け入れられないがゆえに、悶々と悩み続ける。本作が描くのは、モラトリアムと成熟の狭間に位置するアラサーの男女が陥る、普遍的な実存の危機だ。
キルケーの魔女。前作でギギが説明しているとおり、薬草と呪文で男たちを獣に変える、ギリシャ神話に登場する魔女の名前だ。ギギはハサウェイから人間性を剥ぎ取り、肉欲まみれの獣に変えるのではない。彼女が剥ぎ取るのはハサウェイが装う「革命家」という薄っぺらいペルソナだ。革命の成就よりも革命家であることが自己目的化したハサウェイを本来の姿──迷える青年に引き戻す。
テロリストの首魁としてのハサウェイには思想がない。彼は自分の思想も、それを語る言葉も、持ち合わせていない。『逆シャア』のリメイクシーンでアムロの幻影と対峙した時、シャアの台詞をそっくりそのまま反復するのは、彼が大義など持ち合わせてはいない、空っぽのテロリストだからだ。ハサウェイにとってテロは社会変革の手段ではない。空っぽな内面が崩壊しないための精神安定剤に過ぎない。オープニングテーマ曲『Snooze(まどろみ)』が示すように、ハサウェイはテロリストの役を演じることで、現実を直視することを、「目覚める」ことをスヌーズ(遅延)させているだけなのだ。
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