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ラスト・オブ・アス

ラスト・オブ・アス

終末のフロンティアを解剖する六つの視点

終末のフロンティア──『ラスト・オブ・アス』を解剖する6つの視点

『ラスト・オブ・アス』をゾンビものとして読むのは、もっとも凡庸な誤読だろう。本作はサバイバルホラーの皮を被った政治的・神学的寓話に他ならない。ノーティードッグが2013年に世に問うた本作は、2022年のPS5向けリメイク、2020年のPART2、そして2023年のHBOドラマ化を経てなお現代性を失っていない。むしろコロナ禍と陰謀論の時代を経た今こそ、この作品が秘めていた射程の長さがあらわになりつつある。

本稿では原作ゲームを軸に、表層の物語──父娘的二人組による横断旅行──を超えて作品が孕む六つの「見立て」を提示する。

(一)逆走するフロンティア神話としての構造、(二)社会契約の崩壊と血縁的部族への回帰、(三)寄生菌をめぐるイデオロギー論、(四)キリスト教的犠牲構造の倒錯、(五)ゲームというメディア固有のプレイヤー共犯性、(六)暴力の循環と他者性の倫理。

これらの層は別々に存在するわけではない。互いに重なり合い、共鳴し、最終的にひとつの問いに収束していく──「終末以後、人間は何を頼りに生きるのか」という問いに。

2. フロンティアの遡行──アメリカ建国神話の解体

物語の出発地はマサチューセッツ州ボストン、終着地はユタ州ソルトレイクシティ。この地理的軌跡は決して恣意的ではない。ボストン近郊のプリマスは、1620年にメイフラワー号で渡米したピルグリム・ファーザーズが上陸した「アメリカという国家の始まりの地」だった。一方、ユタ州ソルトレイクシティは、1840年代にニューヨークで生まれ迫害されたモルモン教徒たちが、長い苦難の旅の果てに辿り着いた「終の住処」だ。

つまりジョエルとエリーは、アメリカ建国神話の往路を逆走している。東から西へ、希望から幻滅へ、契約から崩壊へ。ヴァレンティーナ・ロマンツィが指摘するように、本作は「フロンティア神話のポスト・アポカリプス的再演」として機能している[^1]──いや、より正確に言えば、それは再演というよりむしろ解体だろう。フロンティアは外側に向かって開かれた未知ではなく、内側に向かって崩れ落ちた残骸として現れる。

この点で本作は、明らかにウェスタン・ジャンルの形式──カウボーイ的男性主人公、フランネルシャツ、馬、リボルバー、荒野──を踏襲しながら、その精神を裏返してみせる。ジョエルは確かに西部劇的英雄の系譜に連なるが、彼が守るのは共同体ではなく、たった一人の少女にすぎない。彼の暴力は秩序の回復のためではなく、私的な愛のために行使される。フロンティア神話の核心にあった「再生する暴力(regenerative violence)」というリチャード・スロトキンの古典的概念[^2]は、ここで個人的執着の道具へと矮小化されていく。ペレイラがWiley誌で論じたように[^3]、ジョエルは「カウボーイ的男性性」を反復しつつ、その目的論を空洞化させる人物だと言えよう。

このアメリカ的構造の解体は、第一作の冒頭から徹底的に描かれる。ゲームの最初のステージは「アメリカ歴史博物館」、そして「寂れた議事堂」。失われた中央政府の記号、機能を停止した民主主義の遺骸。プレイヤーは廃墟と化したアメリカ的記憶のなかを歩きながら、何かの「終わり」の現場に立ち会わされる。建国神話の終焉、それを目撃する旅路として『ラスト・オブ・アス』は始まる。

3. 契約なき共同体──FEDRAから血縁部族へ

『ラスト・オブ・アス』の世界において、もっとも決定的な事実は感染ではない。連邦政府の機能停止──そちらこそが本作の真の前提だろう。パンデミック直後、中央政府は崩壊し、その代替として連邦緊急事態管理庁(FEDRA)が権力を掌握する。実在のFEMA(連邦緊急事態管理庁)を直接参照したこの組織は、当初は市民を守る防波堤として機能するが、やがてクーデターを起こし、強権体制を確立してゆく。

ここで作中世界は、ジョン・ロックが描いた社会契約論の前提を破壊してしまう。市民が政府に主権を委譲する見返りに、政府は安全を保障する──この契約が、根本のところで裏切られている。FEDRAは隔離地域を「保護」と称して管理するが、収容しきれない者を殺処分し、物資の配給を権力の道具とする。エリーが目撃する川辺の白骨遺体──公権力による虐殺の記憶──は、その契約破綻の物的証拠だ。

契約が機能しないとき、人間は何に頼るのか。本作の答えは明快に尽きる。血縁、部族、擬似家族。ジョエルとテスのパートナーシップ、ジョエルとエリーの疑似親子関係、トミーとマリアのジャクソンのコミュニティ、そして牧師デヴィッドが率いる擬似的家族。これらはすべて、崩壊した普遍的契約に代わる、特殊主義的・原始主義的な絆として立ち上がる。

ジャクソンのコミュニティは、一見するとユートピアに見える。リーダーがおらず、すべてを共有し、街には劇場もバーもある。だがこの共同体もまた、外部に対しては排他的であり、内部の調和は壁の外側にいる「敵」の存在によって支えられている。シアトルのワシントン解放戦線(WLF)も、スカーの宗教的共同体も、そしてジャクソンも、構造的には同じものだろう。役者が入れ替わっただけで、政府機能の消失後に残るのは、いつでも「我々/彼ら」という暴力的二分法でしかない。

ここに本作の鋭い洞察が立ち現れる。普遍を支える制度が消えたとき、人間は再び部族の論理へと退行してしまう。これは現代の政治的分極化、SNS的部族主義、そして国際秩序のGゼロ化を予言的に映し出しているように思える。FEDRAの腐敗、ファイアフライの大義、WLFの強権、スカーの狂信──いずれもポスト・国家時代における疑似的秩序の見本市と呼べるし、いずれも例外なく腐っていく。

4. 寄生菌というイデオロギー

冬虫夏草(コルディセプス)は単なる感染源ではない。それは観念のメタファーとして読み解かれるべきものだろう。

冬虫夏草は脳に寄生し、宿主の思考を乗っ取り、行動を制御する。実際の冬虫夏草属の近縁種は、熱帯のオオアリの脳ではなく顎の筋肉に侵入し、宿主を高所に誘導したうえで噛みつかせ、そこで子実体を成長させて胞子を効率的に散布させる。ニール・ドラックマンがイギリスのドキュメンタリーでこの存在を知り、設定の核に据えたという事実は、決して偶然ではあるまい。彼は生物学的事実のなかに、観念が人間を蝕む構造を発見していた。

これは「観念に憑依された人間」という古典的な政治哲学のテーマを、生物学的フィクションへと翻訳したものと言ってよい。マルクスが論じた「イデオロギー」、アルチュセールの「呼びかけ(interpellation)」、あるいはより俗に言えば、現代のSNSにおけるアルゴリズム的同調圧力。私たちはどの瞬間においても、見えない胞子にすでに感染しているのかもしれない。

作中ではこの構造が、具体的なキャラクターを通じて何重にも反復される。HBO製作のドラマ版で描かれたビルは「サバイバリスト」を自称し、ガズデンフラッグを掲げ、9.11陰謀論を信じる。彼は明らかにアメリカの保守的プレッパー文化──ティーパーティーからQアノンへと流れ込んだあの精神的水脈──の戯画として機能している。ファイアフライのリーダー、マーリーンは「人類を救う」という大義に取り憑かれ、エリーの脳を取り出すことを正当化する。牧師デヴィッドは黙示録を説きながら、自らの共同体を維持するためにカニバリズムを許可する。

すべての登場人物は、何らかの「観念」に感染している。物理的な感染者と異なるのは、彼らが自らの感染を自覚していないこと、そしてその観念のために他者を殺すことを「正義」と信じ込んでいることだろう。ここにおいて『ラスト・オブ・アス』は、ポスト・トゥルース時代のイデオロギー論として読み直されるはずだ。私たちが恐れるべきは脳を支配する菌ではなく、脳を支配する物語のほうではなかったか。

5. 偽りの聖父──キリスト教的犠牲構造の倒錯

ジョエルは父であり、エリーは犠牲となるべき子であり、ファイアフライはエリーを「磔刑」に処そうとする祭司団。これはキリスト教的構造の露骨な反復にほかならない。旧約聖書のイサクの燔祭において、アブラハムは神への信仰のためにわが子イサクを犠牲に捧げようとした。新約聖書では、神自身がわが子イエスを人類の救済のために犠牲とした。「一人の犠牲によって多数を救う」という構造は、キリスト教的犠牲論の核心であり、現代におけるトロッコ問題の宗教的原型でもあるだろう。

ところがジョエルは、この構造を根本から拒絶してしまう。彼は神になることを拒み、アブラハムになることを拒み、エリー一人を救うために人類全体の救済可能性を破壊する。ファイアフライ、その医師たち、マーリーン──彼らはみな「大義のための犠牲」を受け入れた者たちだったが、ジョエルはそれを問答無用で殺戮し、エリーを連れ去る。

これは倫理的に肯定されるべき行為ではない。だがそれは、「私的な愛は普遍的な善より重い」というジョエル個人の倫理的選択でもあった。ここに本作の根源的なアイロニーが宿る。ジョエルはキリスト教的な「愛」を選んだのではない。むしろ彼は、キリスト教的犠牲論を拒絶し、ユダヤ的な「身近な隣人」への愛を選び取ったと読めるはずだ──ドラックマン自身がイスラエル出身であることを思えば、この対比は偶然ではあるまい[^4]。

ドラマ版第八話における牧師デヴィッドとの対決は、この主題を象徴的に描いてみせる。デヴィッドは終末論的キリスト教の戯画と言ってよい。彼は黙示録を説き、自らを「父」と呼び、共同体を「子供たち」と呼ぶ。彼の「父性」は教義的・抽象的・全体的なもの。一方、ジョエルの父性は個別的・身体的・特殊的なもの。エリーが燃え盛るダイニングでデヴィッドを肉切り包丁で滅多打ちにする場面は、抽象的父性に対する具体的父性の勝利として描かれる。エリーの顔に飛び散る返り血──シリーズ全体を貫くあの視覚的モチーフ──は、その勝利が同時に取り返しのつかない汚染でもあると告知している。

そしてジョエルは最後にエリーに嘘をつく。「他にも免疫体質者がいた。ファイアフライはワクチン開発を諦めた」と。この嘘こそが、本作の最大の倫理的爆弾と言える。父は娘のために、世界全体に対して嘘をつく。これは究極の私的倫理であり、キリスト教的普遍倫理への挑戦状にほかならない。「愛は世界より重い」──このシンプルな、しかし破壊的な命題こそが、第一作のすべてを駆動する重力として働いている。

6. プレイヤーという共犯者──ゲームというメディアの特殊性

ここで本作がゲームであることの意味が、決定的に浮上してくる。

映画やドラマであれば、観客はジョエルの暴力を「目撃」する。だがゲームにおいて、プレイヤーはジョエルの暴力を「実行」させられる。引き金を引くのは私であり、ナイフで刺すのもまた私である。私は、見ず知らずの兵士を、護衛犬を、そして手術台にたどり着くまでに病院の医師たちを、自らの指で殺害していく。

イアン・ボゴストが「プロシージュラル・レトリック」と呼んだ[^5]、行為そのものが説得を生むゲームの修辞法がここに働いている。プレイヤーは「ジョエルが正しいかどうか」を頭で判断するより前に、すでに身体的に共犯者となってしまっている。エンディングの嘘の重みは、この共犯性の堆積によって支えられているのだ。私が殺してきたから、ジョエルの嘘は私の嘘でもある。私が引き金を引いてきたから、ジョエルの選択を私は批判できなくなる。

PART2はこの構造をさらに残酷な仕方で展開していく。プレイヤーはまずエリーをプレイし、ジョエルの仇であるアビーへの復讐を遂行する。だが物語の中盤で視点はアビー側へと転倒する。プレイヤーはアビーをプレイしながら、自分が先程まで殺そうとしていた人物の生活、友人、犬、恋人、葛藤を体験させられてしまう。

そしてプレイヤーは思い知らされる。エリーが先程アビーの仲間として無造作に殺してきたあの人物には、名前があり、声があり、物語があったのだ、と。Eurogamerのインタビューでドラックマン自身もこう認めている──「自分がすでに殺した人々や犬と再会するのはとても悲しい。恥と罪悪感を感じた。これはゲームでは滅多に感じない感情だ」[^6]。これはゲームというメディアが原理的に達成しうる、もっとも深い倫理的衝撃ではないだろうか。

ノーティードッグがNPC一人ひとりに名前を与え、仲間が死体に向かって名前を呼ぶ仕様にしたという事実は、この倫理的構造の延長線上に位置している。匿名の的(mark)を撃つのではなく、名前のある人物を殺すこと。それを身体で体験させること。本作の暴力描写の生々しさは、暴力を消費させるためではなく、暴力を耐えがたいものとして実感させるための装置として設計されている。

7. 循環する暴力と他者性の倫理

ニール・ドラックマンはイスラエル占領下の西岸地区で生まれ育った[^4]。彼が暴力の連鎖をテーマに据えた理由は、明らかに彼自身の文脈にある。Arc Studio誌のインタビューで、ドラックマンはPART2の構想が彼自身の体験した「報復の循環」から発していることを認めている[^7]。共同脚本のハリー・グロスもまた、自身のPTSD体験をエリーのキャラクターに投影したと語っている[^8]。

バビロニア・タルムードの一節──「誰かが殺しに来たら立ち向かい、こちらが先に殺せ」──は、本作の登場人物すべてに適用される倫理的最低線と言ってよい。生きるためには殺さねばならない。だが、その「生きるために」は、誰のためなのか。何のためなのか。

ジョエルはエリーのために殺す。エリーはジョエルのために殺す。アビーは父のために殺す。ヘンリーは弟のために殺す。すべての登場人物が「愛するもの」のために他者を犠牲にしていく。ここで露呈するのは、「愛」と「暴力」が対立しないという冷酷な事実だろう。むしろ愛こそが、もっとも執拗な暴力の動機となっていく。エリーがオーウェンの妊娠した恋人をうっかり殺してしまう瞬間、循環は完結する。誰もが誰かにとっての「愛されし者の仇」になってしまう。

この循環を断ち切る道はあるのか。本作の答えは慎重で、控えめなものに思える。それは「許し」ではない。エリーは最後までアビーを許してはいない。だが彼女はアビーを殺さない。なぜか。ジョエルとの最後の会話の記憶──「許せない。けど、許そうとしてる」──が彼女の手を止めるからだ。そして、アビーをプレイしたことで彼女もまた一個の人間だと体感した「プレイヤー」自身が、エリーの手を止めさせる。

つまり循環を断ち切るのは、抽象的な赦しの教義ではなく、具体的な記憶と関係性のほうではないか。アビーをプレイすることで他者の物語を知ったプレイヤー、ジョエルとの和解未満の対話を抱えたエリー──両者は「相手にも物語がある」という事実によって、辛うじて一歩を踏みとどまる。

これは現代における普遍的な暴力の問題への、極めて慎ましい応答と言ってよい。和解は到来しない。許しも訪れない。ただ、相手の物語を知ることで、暴力は一拍だけ遅延される。その遅延の積み重ねのなかにしか、おそらく希望はない。中東紛争、ロシア・ウクライナ戦争、米国の政治的分極化──現実世界の循環する暴力に対して、本作が差し出すのはこの一拍の遅延だけ。だがそれは虚無ではなく、ひとつの倫理として立ち上がってくる。

8. むすび──終末以後の倫理

『ラスト・オブ・アス』が描いているのは、終末ではない。終末「以後」の倫理だろう。

国家が崩壊し、契約が破綻し、普遍的物語が消失したあと、人間は何を頼りに生きるのか。血縁か、部族か、観念か、それとも個人的愛か。本作の答えは、どれも危険を孕んでいる、というもの。血縁は排他性を生み、部族は戦争を生み、観念は寄生し、個人的愛は普遍的善を裏切る。

それでも私たちは何かを選ばなければならない。ジョエルは「個人的愛」を選んだ。その選択はエリーを救い、人類を見捨てた。エリーはやがてその選択の重さに気付き、復讐の旅に出るが、結局は自分もまた同じ循環のなかにいることを発見してしまう。誰もが正しく、誰もが間違っている。これが本作の終わらない不協和音にほかならない。

ノーティードッグの傑作は、ゾンビ・ゲームの皮を被った政治哲学的寓話として読まれるべきだろう。冬虫夏草とは観念のメタファーであり、フロンティアとはアメリカの裏返しであり、ジョエルの嘘とはキリスト教的犠牲論への挑戦状。そして何より、プレイヤー自身がこの倫理的迷宮の共犯者として召喚されてしまう。本作の暴力描写の異様な生々しさは、暴力を消費可能なスペクタクルから倫理的負担へと変換するための装置として機能していたのだ。

私たちはみな、すでに胞子を吸い込んでいる。何らかの観念に感染している。何かのために誰かを犠牲にすることで今この瞬間を生きている。『ラスト・オブ・アス』は、その事実を冷酷に、しかし美しく、突きつけてくる作品ではなかったか。終末はもう起きてしまった。だが狼狽する必要はない。「Endure and Survive(耐えて生き抜け)」──ポスト終末世界を生き抜く術は、すでに作品のなかで示されているのだから。


[^1]. Valentina Romanzi, "Staying Human in the Post-Apocalypse: The Frontiers of Individualism in The Last of Us and Its Sequel," JAAAS: Journal of the Austrian Association for American Studies, 2024. 同論考はTLOUシリーズを「個人主義的フロンティア」の再演として読む批評的読解。 [^2]. Richard Slotkin, Regeneration Through Violence: The Mythology of the American Frontier, 1600–1860, Wesleyan University Press, 1973. 「再生する暴力(regenerative violence)」概念は同書を起点とし、続く三部作(The Fatal Environment, 1985/Gunfighter Nation, 1992)で展開された。 [^3]. A. Pereira, "The Postapocalyptic Frontier Hero: The (Weird) Western, Cowboy Masculinity, and Regenerative Violence in The Last of Us (2013)," The Journal of American Culture, Wiley, 2025. [^4]. ニール・ドラックマンはイスラエルに生まれ、幼少期をヨルダン川西岸地区の入植地で過ごしたのち、十代で米国へ移住したことを各種インタビューで本人が公にしている。Cf. Eurogamer(2020)および Arc Studio Pro Blog(2020)の各インタビュー。本稿§5および§7の言及はいずれも同事実を踏まえる。 [^5]. Ian Bogost, Persuasive Games: The Expressive Power of Videogames, MIT Press, 2007. 「プロシージュラル・レトリック(procedural rhetoric)」概念は同書第1章を中心に展開されている。 [^6]. "The Last of Us Part 2 spoilercast: Neil Druckmann and Halley Gross interview," Eurogamer, 2020. 引用部分はドラックマンの発言の抄訳。 [^7]. "How TLOU Part II Writers Crafted a Game That Made Us All Cry," Arc Studio Pro Blog, 2020. ドラックマンはPART2の主題的起点として「報復が報復を呼ぶ循環」を挙げる。彼自身のイスラエル/西岸地区出身という個人史と切り離せない主題化である点については上記註4を参照。 [^8]. Halley Gross は IndieWire および Arc Studio Pro Blog のインタビュー(2020年)において、自身のPTSD体験がエリーの心理造形に反映されていることを語っている。

※ 本稿は2万文字程度のメモ書きをもとにClaude Opus 4.7で作成した。

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