TVのある自室と教会としての映画館
映画という時間を、空間で挟撃せよ
noteを再開するにあたって自分が過去に書いた文章を渉猟していたら、こんなテキストが出てきた。主張・意見は持ちながら、文章力が追いついていないな、という羞恥を帯びた自己評価はさて置くとして…この散文を書いたのはCOVID-19によるロックダウンたけなわの時期だ。本稿を書いた当時と現在では状況が異なるし、文脈も変容しているので、今さら再掲するのもどうかと思ったが、骨子となる主張は今も変わっていないので再掲することにした。
世界中の都市がロックダウンされるなか、映画館は在り方を問い直され、実存的な危機に晒された。この文章を書いていた4年前には映画館の未来に閉塞感が立ち込めていたものだけど、蓋を開けてみればコロナ禍の最中に公開された『TENET』が映画館と西欧の映画産業の救済に大きく寄与していた。聖書以来、人間は物語の力を信じ続けてきた。人は物語なくして生きることはできないし、物語の方もまた人間なくして存在し得ない。人間と物語とは相補的な関係性に置かれており、その関係が続くかぎり映画というメディアが廃れることはないだろう。
映画と映画館に幸多き未来が訪れますように。
時間から脱出せよ──半年ぶりに訪れた梅田のTOHOシネマズで、クリストファー・ノーランの新作映画『TENET』のポスターに書かれたこの惹句を見たとき、僕は胸の裡でこう呟いた。
「やっぱ、何(なん)か、違(ちゃ)うよなぁ……」
そう、「なんか、ちゃう」のである。この「なんか」を敷衍すると、宣伝コピーそのものに対する違和感もあったけれど、より茫漠としたもうひとつの違和感があった。
それは、コロナ禍によって外出機会がめっきり減ってこのかた、自室のTV画面でストリーミング配信の映画を観ていた間、ずっと感じていたある疑問だった。自室のTVであれ映画館のスクリーンであれ、映画を観る行為は同じなのに、なぜTVのある自室は映画館たり得ないのか?
COVID-19のパンデミックは、僕たちが生きる日常空間を目的と手段という2つのマテリアルに分解した。居酒屋での飲みニケーションは、談笑とZoomに分解され「リモート飲み会」というオルタナティヴを生み出し、職場への通勤はSlackなどのビジネスツールと業務に分解されて「リモートワーク」を根づかせた。
映画鑑賞という行為もまた、映画を観ることと、ストリーミングサービスという2つのマテリアルに分解された。映画を鑑賞するための空間という従来の目的を簒奪された映画館は、パンデミックが収束して後も、存在意義を喪失したまま緩やかな死を待つしかないのだろうか。
僕はそう思わない。いや、思いたくない。
思いたくないから、アフターコロナにおける映画館の存在意義を再考したい。COVID-19によるパンデミックを経て、人々は自宅にいながら配信によって映画を観ることに慣れてしまった。自宅のソファで寝そべりながらスマホをいじりながら、月額料金さえ支払えば鑑賞しきれないほど膨大な量の映画にアクセスすることができる。そんな状況に一度慣れてしまった人が、ロックダウンが解除された後、わざわざ2000円近い木戸銭を払ってまで映画館で映画を観ようと思うのだろうか。どちらの方が心理的ハードルが低いかは推して知るべしである。
斯様な状況下における映画館の存在意義とは一体なんなのか。自宅のストリーミング配信による映画鑑賞には無くて、映画館での鑑賞行為にはあるもの。それは“教会的な機能”だと思う。
教会には2つの性格がある。祭壇に祀られた聖母像に祈りを捧げ、己と向き合う空間であること。そして、日常空間から遮断された聖域であること。
まず、前者の性質から検討してみよう。
教会で聖母像に祈りを捧げたからといって、神は明示的に回答してくれるわけではない。それでも人々が心の安息を得られるのは、瞑目して祈りを捧げている間、己と向き合っているからだ。各人の中にある各々の神の姿と胸の裡で対話するからだ。神は存在するか、という神学的な前提はさて置き、対話の相手である神が当人の想像力に依って立つ以上、これは自己との対話にほかならない。
僕たちが教会で聖母像へ祈りを捧げるとき、神は声を発して明示的に回答してくれたりはしない。それでも人々が一定の安らぎを得られるのは、目を瞑って祈っている間、自己と対話しているからだ。各人が想像した各々の神と、胸の裡で対話しているからだ。そして、その対話の相手たる神が当人の想像力に依って立つ以上、それは自己との対話に他ならない。
教会と聖母像の関係は映画館とスクリーンのそれと相似だ。
映画を鑑賞する=スクリーンを見つめるという行為は、登場人物に自己を投影し、物語世界の中で獲得する疑似体験だ。スクリーンを見つめるとき、僕たちは映画の世界に耽溺すると同時に、内面で自己と対話している。
あの場面で主人公はこういう行動を取ったけど、自分だったらどうするか…? さっきのシーンでヒロインはどういう心情だったのか…? そういった内的な自己との対話を重ねることで、観客は映画の中に感情移入していく。これがストーリーに明確なドラマ構造を持たない、いわゆるアートムービーの場合なら、自己を投影する対象がは登場人物からスクリーン全体にシフトする、スケールの違いがあるだけだ。
『タイタニック』で観客が涙するのは、海底に沈みゆくディカプリオに自己を重ねるからだし、『マルホランド・ドライブ』が混沌のうちに終幕を迎えるとき、スクリーンから匂い立つのは「混乱」というある種のカタルシスであり、およそ現実では味わえない(あるいは味わいたくない)愛憎醜美の折り重なった感情である。
ここでいったん「映画館とTVのある自室」の関係に立ち返ってみたい。
重要なのは映画を映している自室のTV画面が、自己と対話する装置=聖母像として機能するのかどうかだ。 これを決定づけるのは視聴者の想像力と作品への没入度合いで、この度合いの濃淡は環境に大きく左右される。外界から遮断され、映画鑑賞に集中できる空間──ある種の聖域性が作品への没入度合いを高めるのだ。
週末の午前になると、老若男女が教会へと足を運ぶ。 眠気まなこの少年をせき立てる父親、杖をつきながらとぼとぼと歩く老婆、友人と歓談するティーンエイジャー。みな三々五々に集い合い、教会にむかって歩いていく。スティーブン・スピルバーグやノーマン・ロックウェルらが好んで描きそうな、典型的なサバービアの情景である。そして教会という空間は、そんなサバービア(郊外)という日常のど真ん中にありながら、日常から遮断された非日常的な空間=聖域でもある。
僕たちが教会の長椅子に並んで座りながら、そっと祈りを捧げるとき、室内を満たすのは粛然たる静寂だ。祈っている間──目を瞑り、内なる自己と対話しているその瞬間、外部の喧騒も、僕語も、場違いな考え事も、その他一切の雑音・雑念も僕たちは排除するよう努める。 それは教会という外部(日常性)から隔絶された、非日常的な空間が要請する態度でもある。身体的・精神的なコンディションの善し悪しに関わらず、ひとたび教会の長椅子に座ったが最後、僕たちは聖母像と、ひいては自己の内的な存在と向き合わざるを得ない。そして、この種の強制力を備えた教会=聖域と対極をなすのが、日常空間の中心地たる自室だ。
自室のソファでくつろぎながらNetflixで映画を観るとき、僕たちは日常に属する様々なノイズに囲まれている。緊急性の低いメールの通知、パトカーのサイレンや若者の叫声といった窓外の雑音、あるいは自宅であるがゆえに、惰性で飲み続けた缶ビールによる尿意と眠気、といった具合に。
こういったノイズに注意力を乱されたとき、自室ではボタンひとつで映像を一時停止できる。映画を中断できるのは、自室という日常空間の中心地だからだ。一時停止するのも、それからスマホの通知をチェックするのも、思いのまま。だが、これが映画館だとそうはいかない。映画館はノイズとは無縁の外部から隔絶された空間=聖域だ。仮に、ポケットの中でスマホが着信しようが、尿意を感じようが、前の席でカップルがイチャイチャし始めようが、そんな些事はそっちのけで映画は進行するし、それゆえに観客は集中力を総動員してスクリーンと対峙せざるを得ない。この状況を生み出す強制力こそが、映画館の持つ聖域性であり、自室では決して得られない環境だ。「教会としての映画館」が包摂するしている空間的な魔力であり、TVのある自室が映画館たり得ない最大の理由だ。
時間から脱出せよ──冒頭でも触れた『TENET』の日本版宣伝コピーだ。
本編の内容に即せば、「時間で挟撃せよ」という方が妥当だろう。作中における「第三次世界大戦」=終局とは、過去と未来の対立であり、時間軸は同一であると見做すべきだからだ。では、ここで「時間」の位置に「空間」を代入し、接頭部へ「映画という時間を」と補って読み替えてみるとどうだろう。
(映画という時間を)空間で挟撃せよ。
映画という時間を、空間──自宅と映画館という2つの空間で挟撃する。
自室でストリーミング配信の映画を観るという日常にどっぷり浸かった映画鑑賞と、映画館という聖域で自己との対話を重ねる、より没入度合いの高い映画鑑賞。両者は全く性質の異なる映像体験であり、空間である。 だからこそ、両者はゼロサムな関係ではなく共存できる。
映画産業に寒風が吹きつける今、ひとりの映画ファンとして、そう信じたい。
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