LUV
21世紀のタイラー・ダーデン
中心化された管理の必要を破壊した感染活動の、全く別の様態を可能にして生産したという点で、ファンジンは音楽そのものよりも意義深いものだった。
— マーク・フィッシャーあるいはk-punk
「やめて、その言葉」
「コンテンツ」という言葉を耳にした映画プロデューサーが脊髄反射のように叫ぶ台詞──ライアン・ゴズリング主演、2024年公開の映画『フォールガイ』の台詞である。商業映画に必要不可欠な存在でありながら、長らく見過ごされてきた裏方仕事:スタントマンに焦点を当てた本作は、映画製作に関わる全ての人に向けた讃美歌だった。映画製作者への敬意に満ちた本作の中で「コンテンツ」という言葉が蛇蝎視されているのは示唆に富んでいる。コンテンツと映画(作品)は全く別のものだと、本作は主張しているのだ。
そもそも、「コンテンツ」と「作品」の違いは何だろうか。
ベストセラーとなった新書『映画を早送りで観る人たち』の中で、両者の違いは視聴態度にあると論じられる。コンテンツとは刹那的に消費されるものであるのに対し、作品はじっくりと腰を据えて味わうものである。これが先の著作が提示する主張だった。
だが、この主張には大切な要素が欠けていると僕は思う。それはLUV(愛)だ。
生真面目なLOVEではなく、もっとカジュアルなLUV──「好きだ」と感じる感性と、「好きなんだ」という感情を、飾らない言葉で、自分の言葉で語ること。軽薄でフランクな「好き」という情念。映画作品とは、映画を観る行為とは、暴論すれば感情体験である。ドキドキする、泣ける、笑える、スッキリする、感動する…映画の感想とは感情の吐露であり、面白い/つまらない、という感想もまた、鑑賞した当人の感情の表層に過ぎない。コンテンツと作品の違い──それは、創作物の受け手が抱くLUV(愛)の濃淡の差である。
映像作品の批評において、鑑賞行為はしばしば料理に喩えられる。作品という料理をじっくり堪能する=鑑賞する、という構図だ。同じ料理を食べて、「美味しい」という感想を抱いたとしても、その「美味しい」という一語には人それぞれ異なる体験があり、ディテールがある。同じ映画を観て、「面白い」という感想を抱いたとしても、その「面白い」の内実は人の数だけ違いがある。「美味しい」「面白い」など、抱いた感想は同じなのに、そこへ至るプロセスは人それぞれ違っていて、その属人的な差異が「批評」として機能する。
作品を批評する行為とは、「面白かった」という感想を「面白い」という言葉を使わずに述べることに他ならず、その作品の「面白さ」を読者に伝える過程そのものである。ある結論に至るプロセスを叙述するためには、その過程を考える必要があり、考えるためにはある程度の時間が必要となる。考えるための時間も、その結果生まれる、「面白い」という感想に至るプロセスも、サプリメント的に映像作品を「消費」するだけでは生まれてこない。そこには時間をかけて「面白さ」を検証する態度が要請される。つまり、「感想」は消費・鑑賞いずれにも生じるが、「批評」は鑑賞からしか生じ得ない。コンテンツは「消費」によって感想を生み出し、作品は「鑑賞」によって批評を生み出すのだ。
では、「消費」と「鑑賞」の違いとは何だろうか。それは対象を摂取する速度の違いだ。先の料理の例でたとえるなら、ゆっくり食べるか、早食いするか、という違いになる。コンテンツを「消費」する行為とは、ストリーミングサービスで配信された那由多の映像作品群をサプリメント的に、手っ取り早く、次から次へと視聴する、“速い”消費行動である。一方、映像作品を「鑑賞」する行為とは、じっくりと腰を据えて対象作品を吟味する、“遅い”消費行動である。
新書『映画を早送りで観る人たち』では、“速い”消費と、“遅い”鑑賞を対置することで、現代の視聴覚メディアを取り巻く状況が論じられている。だがこの速度を基準にした分類には致命的な欠落がある。映画を作るのも観るのも人間であり、映画を含めた全ての映像作品とは感情体験である、という前提が欠けているのだ。
コンテンツと作品をわけるのは速度ではなく温度だと思う。消費と鑑賞──それを摂取するのに要する時間の長短ではなく、受け手側の温度だと思う。どれだけの速さで視聴しようと、そこに愛がなければ、作品はコンテンツの域を脱することはない。翻って、TikTokで切り抜き動画を観ただけであっても、その短い数十秒に心奪われ、原作に遡行し、登場人物の名前を覚え、設定や台詞を暗記し、二次創作にまで手を伸ばすのであれば、その数十秒は当人にとってまぎれもなく「作品」となる。対象を摂取する速度は愛(LUV)の濃淡を保証しない。それに触れた後、何が残るのか、何かを残そうと行動に至るかどうか──それだけがコンテツと作品を線引きする。
『フォールガイ』の劇中、プロデューサーの女性はどうして「コンテンツ」という言葉に嫌悪感を示したのだろう。彼女が拒絶していたのは略語がもたらす語感ではない。「コンテンツ」という言葉が前提とする、作り手と受け手の関係性を拒絶していたのだ。
コンテンツ──容れ物(Container)を語義に持つ言葉。
容れ物としてのプラットフォームが先にあり、その容れ物の空白を埋める「中身」として映像作品が量産される。Netflixの月次ラインナップ、Youtubeのおすすめ欄、TVerの番組表──こういった「容れ物」の側に主権がある世界では、映画は容れ物の容量にあわせて成形される素材でしかない。スタントマンがどれだけ身体を張り、命を削っても、それが容れ物の中で消費され、1日後には忘却されるのならば、彼/彼女らの仕事は容れ物を満たすための「中身」に過ぎない。プロデューサーは、この倒錯した関係性を拒絶したのだ。
ここに、作品とコンテンツをわける一線がある。作品とは、容れ物(プラットフォーム)の側ではなく、作り手と受け手、双方の側に主権がある映像体験のことだ。その主権の所在を決めるのは、愛(LUV)に他ならない。
ここで、ある男を召喚したい。タイラー・ダーデン。20世紀最後の反逆児にして、革命児。時代の変遷期に大衆文化のなかに立ちあらわれたテロリスト。デヴィッド・フィンチャー監督の映画『ファイトクラブ』(1999)の、あの男だ。
タイラーは消費社会を憎んでいた。IKEAのカタログをめくり、自分が何者かを家具の組み合わせで規定しようとする「僕」を嘲笑い、地下室で素手の殴り合いをすることで、商品によって規定された自己から脱出しようと試みた。タイラーの暴力は容赦がない。遠慮会釈のないむき出しの暴力性──グロテスクで反動的で動物的な衝動がタイラーに拳を振るわせる。
そんなタイラーが僕たち観客に突きつけた問いは、20世紀末の問いとして、ミレニアムの一幕として消費され、忘却されるたぐいのものではない。「お前が買ったものが、お前を作っているのではない」──これは21世紀のサブスク時代でも有効な問いだ。
20世紀のタイラーは、IKEAの家具を爆破することで自己を取り戻そうとした。もし彼がこの21世紀、2026年の現代に生きていたら、何を爆破するだろうか。おそらく家具ではない。世界中を覆い尽くすほど肥大化したプラットフォーム、容れ物を爆破の対象に選ぶはずだ。
Netflixのトップ10、YouTubeのおすすめ、TikTokのFor You ページ──アルゴリズムが用意した容れ物の中で受動的に「中身」を浴び続ける限り、僕たちは自分の欲望に無自覚なまま、容れ物に与えられた欲望を自分の欲望と錯覚する。これは本当に自分が好き好んで観ているのか、それともアルゴリズムに推奨されたから観ているのか、ネットの評価が軒並み高評価だから自分もこれが気に入るはずだという前提で観ているのか──そうして僕たちは自分の欲望を見失い、自分の欲望を語るための言葉を喪失し、自己像も、見当識すらも失う。「バズっている」「高評価」「酷評」「おすすめ」という外部の声を参照しなければ、自分の好悪すら判定できなくなる。プラットフォームの奴隷である。
21世紀におけるタイラーの仕事は、地下室で殴り合うことでもなければ、ファミリー映画のフィルムリールの1コマに屹立した男性器を挿入することでもない。私はジャックの乳首です。 自分の言葉で自分の欲望を語ること。アルゴリズムの推薦ではなく、評論家の星取りでもなく、興行収入でもなく、自分がたまたま観てしまった、思わず反応してしまった、その事実から出発し、「なぜ好きなのか」を誰に頼まれたわけでもないのに、語り続けること──それが21世紀におけるスペースモンキーの在り方だ。
パンクの時代、ファンジンは音楽そのものよりも意義深いものだった、と批評家のマーク・フィッシャーは書いている。なぜなら、ファンジンは中心化された管理の必要姓を拒絶し、感染活動(contagion)のまったく別の様態を可能にしたからだ。レコード会社の宣伝部や音楽雑誌のレビューを介さずに、好事家たちが好きな相手に直接、コピー機で印刷したザラ紙を手渡すことで、音楽は伝播していった。ファンジンの本質はレビューの質ではない。受け手が同時に作り手にもなり得る、その回路にこそファンジンの本質がある。
情報環境が整備された現代において、この回路はオンラインに遍在している。Letterboxd、note、はてなブログ、Substack、Podcast、Discord──ファンジンに代わる感染回路はすでに無数に開かれている。コンテンツの消費者であることをやめ、作品の忠実な受け手となって、作品について語ること。その回路はすでに整えられている。問題は回路の有無ではなく、そこに注入するLUV(愛)を、僕たち一人ひとりが自分の体温として持てているかどうかにある。
この荒削りな同人誌もまた、そんなLUVに駆動されたオタクによって書かれた、ファンジンの一形態である。 僕はプロの批評家ではないし、アカデミアの研究者でもない。ただ、自分が触れてしまった映画やドラマ、アニメ、ゲーム、本について、自分の言葉で、自分の体温で、自分の欲望を確かめるために言葉を弄ぶ。 「やめて、その言葉』と叫んだ、あのプロデューサーに向けて、21世紀のタイラー、その眷属たるひとりのスペースモンキーとして応答したい。
「ファイトクラブではおまえは銀行預金の額ではない。仕事ではない。家族ではない。自分で思い込もうとしている人物像ではない」
メカニックは風に向かって怒鳴る。「名前ではない」
バックシートのスペース・モンキーの一人が応じる。「悩みではない」
メカニックが怒鳴る。「悩みではない」
スペース・モンキーが叫ぶ。「年齢ではない」
メカニックが怒鳴る。「年齢ではない」
タイラーが告げる。「LUV──薄っぺらい、むき出しの“愛”だ」
コメント