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スカーレット

スカーレット

細田守の新作『果てしなきスカーレット』が炎上している。

炎上といっても製作者にまつわるスキャンダルではなく、作品の感想を巡ってSNS(おもにX)で酷評派と擁護派が対立しているというのが内実だ。「意味不明」「今年ワースト」「駄作」といった言葉が、まるでBotが吐き出したコピペのようにタイムラインを染め上げている。酷評派も擁護派も、まるで示し合わせたかのように、似たような言葉を使い、似たような主張を投稿している。彼/彼女らの主張およびそこで使われる言葉が画一的なのは、Xの投稿に課された140文字という制約のせいかもしれないし、彼/彼女らの主張の本質が「面白かった」「つまらなかった」というたった数文字の言葉に還元可能だからかもしれない。

今回に限らず、芸能人のスキャンダルでも『白雪姫』や『室井慎次』など映画の酷評ムーヴでも、SNSで擁護派と反対派が大喜利合戦を繰り広げるたびに思うことなのだが、おそらくこの大喜利的なゲームに参加するプレイヤーたちは「何者かになりたい」のではないか。何者かになりたい。他人に見せたい自己像を想定し、その目的に合致した内容を投稿することで、自分が何者かであることを実感したい、証明したい。

そもそも何者かになる必要があるのだろうか。何者かになりたいと欲望することは、自分が何者でもないかもしれない、という恐れの裏返しではないのか。自分が何者でもない(かもしれない)という自らの凡庸さから目を背けたくて、人はSNS上で「何者かであること」を希求するのではないか。しばしば起きる擁護派と反対派の大喜利ゲームの根本問題がここにある。自己と対峙する鏡のような役割を果たすもの、学界から隔絶され虚構の世界に身を投じることで自己を見つめ直す装置、それが映画であり、本来、映画鑑賞とは孤独な行為だったはずだ。しかし、現代の映画鑑賞はSNSによってシェアすることが前提になっている。

『果てしなきスカーレット』が炎上したのは作品の出来不出来ゆえではなく、作品を「何者かになる」ための、シェアするための素材(記号)とし扱うことしかできなくなった現代の観客のほうにこそ要因を見いだせるのではないだろうか。

泣ける、スカッとする、どんでん返し…こういった記号を抽出し、コンテンツを記号的に消費する。作品の内容は吟味されず、作品はシェアする内容の「素材」に貶められる。昨今のSNS上でやり取りされる映画を巡る感想は、暴論してしまえばすべて「記号の交換」に過ぎない。Youtube動画の再生画面。その下に表示されている2つのボタン(記号)──「Like」と「Dislike」。この2つの記号で表象できる内容がSNS上では「尊くて価値のある個人の感想」として扱われる。そこには作品に対する愛も、作品と向き合う姿勢もない。作品を「素材」として「記号」をシェアし、「擁護派」あるいは「酷評派」というコミュニティへの所属(安心感)を確認しているに過ぎない。

トレンドに便乗したがる人種は基本的に思考停止を決め込んだロクでもない連中だと、卑屈な僕はそう常々思っているので、『果てしなきスカーレット』は未見なのだが(トレンドが去った後でじっくり鑑賞しようと思う)、各レビュー記事をザッピングするに、晩年の黒澤明作品『乱』『夢』との類似点が指摘されており、これらの作品名が言及されているだけで、『果てしなきスカーレット』がどんな系統の作品なのかはおおよそ想像がつく。おそらく抽象的で奇抜なのだろう。

抽象的で奇抜な内容は、「泣ける」「神映画」「どんでん返し」など分かりやすいタグ付けには還元できない。謎解きパズル的な「考察」をしようにも、この手の作品は「謎」が飽和していることがままあり、考察動画や考察サイトにすべての謎の解決を求めても、裏切られる場合が多い。なぜなら、この種の作品は「表現」として受け止める必要があるからだ。「表現」は「表現」でしかない。そこから何を見つけ、どう意味づけするのかは受け手に委ねられる。それが芸術であり表現である。なぜ黒澤明は『乱』で城を燃やす必要があったのか? あの場面で仲代達也演じる主人公は何を幻視していたのか? 何を考えていたのか? その答えは考察サイトにもSNSにも載っていない。私たち観客が作品と向き合い、鑑賞体験を通して、思案するより他にない。

かなり保守的な言説だという自覚はある。昭和世代の保守的な映画ファンは同意してくれるかもしれないが、時は令和7年である。そうは言っても、映画はエンターテイメントなのだから分かりやすくあるべきだ、とか、時代の変化に対応する義務がある、とか、そういった声も少なくないはずだ。

たしかに観客を置いてけぼりにする奇抜すぎる表現・抽象的にすぎる表現は、消費財としては欠陥品かもしれない。だが映画の役割は「記号」として消費されることだけなのだろうか? カルト映画『ファイト・クラブ』の中でタイラー・ダーデンは言う。

お前は財布の中身じゃない。カーキ色のズボンじゃない

企業広告に踊らされて欲しくもない商品を購入することを、つまりIKEAの家具や仕事の肩書やGUCCIの広告といった「記号」を消費する現代人を、タイラー・ダーデンは徹底的に解体する。

タイラーが射程したのは20世紀末の消費社会だったが、彼の主張を現代に敷衍するとどうだろうか。現代はSNSありきの情報社会である。AISAS(注意・興味・検索・行動・共有)モデルに代表されるように、消費行動のなかに「共有(シェア)」が組み込まれている。近年の映像作品が戦略的にSNSでのバズを狙う作り方・宣伝をするのは、SNS上での承認欲求すらも消費サイクルに組み込まれているからだ。2025年の消費サイクルには、SNSが構造的に組み込まれてしまっている。

映画を観て、その感想をSNSに投稿すること=AISASモデルに忠実に従って消費行動を取ることは消費社会の奴隷になることである。ましてや作品の内実を吟味せず、「何者かになる」ために作品を投稿の素材に貶めることは、SNSを前提とした現代消費社会の忠実な奴隷であることを自らアピールしているに等しい。

「受容/否定」という二元論的ゲームに参加するプレイヤーは「何者」かであるように振る舞おうとするが、そのじつ、SNSのアルゴリズム(およびそれを包含した現代の消費社会)に「何者かになりたい」という欲望ごと搾取されているに過ぎない。

『ファイト・クラブ』のなかでタイラー・ダーデンは言う。

すべてを失って真の自由を得る。

SNSという繋がり(承認の供給源)を断つことで、すべてを失う。そうして真の自由を得る。

SNSと切断する回路──それはシェアを前提としない映画鑑賞ではないだろうか。

SNSから切断され、作品と向き合い、そうして自らを孤独な状態に置くことで、ようやく見えてくるのではないだろうか。自分は何者でもないという実感が。何者かである必要はないのかもしれない、という希望が。

作品情報

果てしなきスカーレット細田守 監督・脚本/スタジオ地図 2025・劇場公開父を殺された王女スカーレットの復讐の旅を描く長編アニメ。ハムレットを下敷きにしたファンタジー。scarlet-movie.jp ↗

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