センチメンタル・バリュー
「○○について」語ることでしか、伝えられない
着火、一服──ゆっくりと紫煙を吸い込み、吐き出す。
3時間ぶりに摂取したニコチンが身体を弛緩させる。喫煙室の重い扉を開けて入ってきた若いカップルが、カバンからIQOSを取り出しながら話はじめた。
「あの席、めっちゃ良い席だったね」
「すごく見やすかったよね」
「最初の場面、あのめっちゃ綺麗な海の場面とかヤバかったもん」
「ほんとそれ」
「てか、もうちょっと暖かくなったら海行かない?」
「湘南とか?」
猫の額ほどのスペースしかない喫煙室に充満する煙を透かしてカップルが談笑し続けている。その光景を呆然と眺めながら、僕は内心で膝を打っていた。
「なるほど。『センチメンタル・バリュー』って、コレについての映画なんだな」
ヨアキム・トリアー監督の新作『センチメンタル・バリュー』を鑑賞した後、喫煙室での一幕である。ここで交わされた会話の真意は何だろうか。二人が本当に伝えたいことは何だったのか。二人の話題は映画の座席から感想へ、さらに海へ変遷していく。カップルは「映画ついて」語りながら、楽しい時間を過ごしたことを互いに確認し、さらに楽しい時間を過ごしたいという願望を伝えるために「海について」語っていたのではないか。俯瞰すれば、これらの会話の根源にあるのは互いの「好き」という感情であり、その感情を確認し合うために今も、そしてこれからも、言葉は交わされ続け、映画を観に行ったり、海へ行ったり、海外旅行をしたりといった様々なイベントが行われるのだろう。
本当に伝えたいことを伝えるために、「◯◯について」語ることでしか、それを表現できない、というもどかしさ。このコミュニケーションの不完全性を父娘の断絶という形で描いたのが『センチメンタル・バリュー』だった。
ノルウェーの首都オスロで舞台役者として活躍するノーラ(レナーテ・レインスヴェ)のもとに、15年前に家を出奔した父グスタヴ(ステラン・スカルスガルド)が突然帰ってくる。15年という時間を隔てた父と娘の会話には、まるで社交辞令のようなよそよそしさが付き纏う。それに拍車をかけるのが、父グスタヴの「ある提案」だ。それは、かつて家族で過ごした家を舞台に、娘を被写体として映画を撮ること。実家をロケーションに、娘本人が主人公を演じ、それを父親が監督する。私小説的と言うにはプライベートに過ぎるこの提案をノーラはすげなく断る。映画製作のプロセスを通して父と娘の不器用なコミュニケーションが描かれていく。これが『センチメンタル・バリュー』のあらましだ。
ノーラとグスタヴに共通するのは「孤独」だ。部屋でひとり電話をかける様子や、食べ物が散乱した机など、ノーラとグスタヴをまったく同じ状況で描くのは、二人の孤独感を強調するためだ。
二人はなぜ孤独なのだろう。それは、心の拠り所、劇中劇の象徴的な台詞で言うなら「帰る場所」を喪失しているからだ。父と娘の間で交わされる不完全なコミュニケーションあるいは、コミュニケーションの不完全性──これこそノーラとグスタヴが「帰る場所」を失った原因であり、「孤独」な境遇はその結果に他ならない。
コミュニケーションとは不完全なものだ。この不完全性は2つの原因に見出すことができる。1つ目は「ことば」そのものの不完全性であり、2つ目は「受け手」の不完全性だ。
前者について言えば、コミュニケーションを媒介する「ことば」は、僕たちが知覚した情報の全てを完全に伝えきることはできない。冒頭のカップルの会話でいえば、「あの場面はすごかった」という「すごかった」部分について、いくら大量に言葉を用いても、その当人が感じた「すごさ」をそっくりそのまま言葉で置き換えることはできない。
だから逆説的に「ことば」から抜け落ちた部分にこそ話し手の真意が宿ることがしばしば起こる。巷でよく耳にする「行間を読め」という言葉がその好例だろう。「ことば」が不完全である以上、それを用いた会話もまた不完全性から逃れられない。これが「受け手」の不完全性だ。
本当に伝えたいこと(真意)をそっくりそのまま言葉にして伝えたとしても、話し手の真意が100%十全に相手に「正しく」伝わるとは限らない。そう、「ことば」は僕たちの知覚を完璧にトレースできないばかりか、受け手によって誤読される可能性も孕んでいる。そんな不完全なものを用いて、僕たちは日常的に会話している。この「ことば」の不完全性について端的に記した文章を引用しよう。
「きみはこう思うことはないか、言葉に意味なんてない、とね」
ぼくは黙っていた。この男が何を言いたいのか、さっぱりわからなかったからだ。
「好きだの嫌いだの、最初にそう言い出したのは誰なんだろうね。いまわれわれが話しているこのややこしいやり取りにしても、そんなシンプルな感情を、えらく遠回しに表現しているにすぎないんじゃないか。美味しいとか、不快だとか、そういう原始的な感情を」
『虐殺器官』 P.224
小説『虐殺器官』の引用を援用すれば、ノーラもグスタヴも、二人が本当に伝えたいのは「愛してる」というプリミティブな感情と言えるだろう。恋人同士の性愛的な「好き、一緒に居たい」ではなく、家族愛としての「好き、一緒にいたい」という本源的な感情を二人とも抱きながら、その本質を伝えることができない。ここに親子の断絶がある。
冒頭のカップルの会話でいえば、性愛的な「好き、一緒にいたい」という感情を伝えるために、映画の座席についての話題や映画そのものの感想が語られる。それと同様に、『センチメンタル・バリュー』では家族愛的な「好き、一緒にいたい」という感情が、映画制作について語ることでやり取りされる。「◯◯について」語ることでしか、真意の周縁部について語ることでしか、真意に触れることができない、という不完全性。本質の意味には永遠に到達できず、その周辺をぐるぐる回ることでしか、「差異」という相対関係の中でしか、その本質に肉薄できない──ジャック・デリダの言葉でいえば「差延」と同じ不可能性が本作を貫いている。
本作における「語り」の多くが「◯◯について」語っているのが、その証左だろう。映画の冒頭、小学生のノーラが書いた作文がモノローグとして語られる。家を擬人化し、家の視点から捉えた家族の日常が小学生らしい筆致で綴られている。家族について語るために、「家について」語る。ここで、父と母の口喧嘩を「うるさい(ノイズ)」という婉曲表現で置き換えるのは、コミュニケーションの不完全性が時として「話し手」の作為によっても生じうることを示すためだ。グスタヴは「映画制作について」語る言葉でしか娘たちとコミュニケーションが取れないし、娘のノーラは「役作りについて」語る言葉でしか自分の苦悩を打ち明けられない。
孤独によってじわじわと心が蝕まれたノーラは心身に失調をきたしている。舞台に立とうとすると拒絶反応が出てしまうのは、本人の自覚しないところで精神が限界に達しつつあるからだ。この拒絶反応についてノーラは妹アグネスに「舞台が嫌いなわけではない」と語る。続けて、役者の醍醐味とは「役作り」にあると語る。演じる役柄の人物が何を見て、何を想い、何を考えているのかを想像することで自分と向き合うことができる。だから、「役作り」が好きなのだとノーラは言う。自分と向き合うために、「役柄」という触媒を通す必要性がある。「役作りについて」語ることで、自分の真意に耳を澄ますことができる。
これはグスタヴも同じだ。「映画製作について」語ることでしか、家族と向き合うことができない。回顧上映《レトロスペクティブ》が開催されるほど影響力を持つ映画監督が15年も新作長編映画を世に送り出していないのは、描くことができなかったからだ。家を出たことで、家族と距離を取ったことで、グスタヴには語るべき主題が喪失してしまったからだ。彼にとって映画製作とは、家族という本質を理解するための触媒であり、「映画について」語ることでしか、家族と向き合えないからだ。
「◯◯について」語ることでしか、本当に言いたいことを表現できない、という不完全性。だが、この限界が敗れる瞬間が往々にして起きる。劇中で描かれるように、妹アグネスは姉ノーラに抱きついて、「大好き」とストレートな感情をぶつけ、人気女優レイチェル(エル・ファニング)は、「この役は私に相応しくない。あなたも気づいているはずだ」とグスタヴを諌言する。成人した姉妹関係や、役者と監督という職業関係といった一定の距離感を保った関係性なら、ストレートな言葉で真意を伝えることができる。だが、父と娘にはそれができない。なぜなら、15年の空白期間を置いてもなお、二人の心が緊密に結ばれているからだ。家を出奔した後、父グスタヴが新作長編を撮ることできなかったように、娘ノーラもまた、父の不在に──小学生の彼女の表現でいえば”家が軽くなった”ことに──それがもたらす痛みを伴った哀しみに苛まれ続けてきたからだ。
劇中劇の脚本は、あきらかにノーラが結婚して家庭をもった場合に辿るであろう運命を想定した、父グスタヴのシミュレーションだ。なぜ、ノーラが自殺未遂したことをグスタヴは看取したのか。亡き母の自殺を描いたという偶然ではない。グスタヴにはノーラが置かれた状況が手に取るように分かったからだ。二人が親子であり、互いに似通った気質の持ち主だからだ。芸術家らしく鋭い感受性を持ち、孤独を抱え、「帰る場所」を失って苦悩している──グスタヴもノーラも、同じ境遇に置かれている。
グスタヴは、かつての仕事仲間が豪奢な家で孤立し、杖をつく姿に「死」と「老い」を見出し、自らの最期を想像して孤独に苛まれる。ノーラもまた、肉体関係を持つ劇団の男性スタッフには積極的に「好き」という異性愛的な好感を伝えることができるのに(湖畔での会話や森林でキスを迫る言動)、その率直さを父親には向けられない。分かっているのに、それができない──この両極端な振れ幅が彼女を蝕み、孤独にさせる(舞台に立とうとすると拒絶反応が出るように)。
空間的に離れ、15年という時間的に離れてもなお、緊密に結ばれた親子の絆。その距離感の近さゆえに、二人は「映画制作について」語ることでしか、「映画」という触媒を介することでしか、互いに向き合えない。距離感の近さが、感情的な緊密さが、時として自他を傷つける。その行き着く先が、グスタヴと妻の口喧嘩だ。コミュニケーションは不完全性なものであり、それゆえに「◯◯について」語ることで、その本質の表層に迫ることができる、ということ。この前提を忘れたままコミュニケーションを続けた結果、誤読が誤読を生み、グスタヴと妻はコミュニケーションの方途を失い、「罵り合う」ほかなかったのだ。
「映画製作について」語ること。父と娘という緊密な距離感ではなく、映画監督と役者というペルソナを纏うことで得られる適切な距離感でコミュニケーションを図ること。そうしてワンクッション置くことで、コミュニケーションの不完全性を最小限に留め置くこと。これこそ、グスタヴとノーラが見出した適切なコミュニケーションの在り方だった。
そうして、コミュニケーションの不完全性を前提とした時、グスタヴとノーラは「帰る場所」を取り戻す。タイトルに冠した「センチメンタル・バリュー(愛着のあるもの)」とは、実態としての「家」ではなく、概念としての「家族」のことだ。劇中劇の撮影が行われる最後の場面で、実物の「家」の外壁が白く塗り替えられ、スタジオに組まれた「家」のセットが使われていることが、それを象徴している。
「◯◯について」語ることでしか、その本質に迫れない、というコミュニケーションの不完全性。映画も含む「表現」もまた、ある種のコミュニケーションである。「コミュニケーションの不完全性について」語ることで、「帰る場所=センチメンタル・バリュー」の本質を炙り出した〈『センチメンタル・バリュー』という映画について〉語ること。僕たちが「ことば」を用いるかぎり、それを用いてコミュニケーションを試みるかぎり、「◯◯について」語ることはマトリョーシカのように無限反復していく。
「映画について」語ること、とは何なのか。押井守は著書の中で次のように述べている。
「映画を見ること」と「見た映画について語ること」は別の経験に見えて、その実は全く同一の経験である──いや、より正確に言うなら「映画を見ること」は「見た映画について語ること」によってしか成就しない、「映画は語られることによってしか存在し得ない」のだとして、しかし振り返ってみればその「語られた映画」と「見られた映画」は、実は依然として全く別に存在するものなのだ、という不可思議さこそが「映画を見る」という行為の真相なのです。
『押井守の映画50年50本』 (立東舎) 2020年
押井の論を援用するならば、「◯◯について」語ることの限界を描いた『センチメンタル・バリュー』は、家族ドラマというジャンルを飛び越えて「映画ついての映画」として観ることも可能だろう。
SNSに情報が無秩序に反乱する2026年──アカデミー賞ノミネートも納得の佳作だった。
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