Hush-Hush: Magazine
コンテクストとテクスト

コンテクストとテクスト

必要なのは「話し合い」ではなく「黙り合い」だ

私は、現代人が失いかけているのは「話しあい」などではなくて、むしろ「黙りあい」だと思っている。
(東京零年)

突然だが無職になった。転職が決まって新しい住環境を手配している最中なのだが、これが一向に進まない。なので正確を期すなら無職期間と言う方が妥当なのだろうが、インカムが無いという点では同じことだ。社会の歯車から切断された陰キャのオタクがすることといえば、映画鑑賞と読書をおいて他にない。そういうわけで、僕は目下、ひたすら映画を観て、本を読んでる。これほど創作物を暴飲暴食するのは学生時代以来のことで、平日の真っ昼間から映画を観ることに罪悪感を抱きながら、それなりに楽しんでいる。今日は最近観た映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』と『TAR/ター』という2つの作品を通して現在のSNS言論について考えてみたい。まずは今日のSNS空間の状況を概観しよう。

今年の明けに、大掃除をするぐらいの軽い思いつきでYoutubeを始めてから半年が経った。自分で動画を投稿し始めると、他の人がどういう動画を投稿しているのか気になるのは当然で、投稿主としてではなく一人のユーザーとしてYoutubeを利用する機会が日常的に増えた。種々雑多な動画が混在するが、そうった動画のジャンルを横断して、ある潮流が幅を利かせている。それが「ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)」である。

近頃だとパリ五輪の話題や、UBIソフトの新作ゲーム『アサシンクリード シャドウズ』の弥助問題がこの一大潮流の本丸と言えるだろう。こういった時事性の高いポリコレの牙城があって、その周縁部分に、ディズニー作品や新規アニメ作品・マンガといった大ヒットコンテンツのポリコレ常備軍が存在する。これが今のYoutubeはじめSNSの言論空間の勢力図だ。

ここでは多様性については言及しない。猫も杓子もポリコレを糾弾する昨今のSNS言論の状況のみを俎上に載せる。

つい先日も、とある大手の映画系Youtuberが『デッドプール&ウルヴァリン』の動画をポリコレ的な切り口で論じてXで軽く炎上していた。くだんの動画および投稿主の主張はいったん棚上げするが、この炎上騒動を傍観していた僕は疑問を抱かずにはいられなかった。最近、作品そのものに対する言説よりも、作品の周縁部分に対する言説ばかりが目立つのはなぜなのか? 1本の映画に作品として向き合い、その作品から論を展開するのではなく、ポリコレという固定された視座から論じる風潮ばかり目立つはなぜなのか?

世の中に星の数ほどある映画の感想ブログやYoutubeの映画系チャンネルと映画評論はまったく異なる別種の存在だ。映画評論とは、映画という作品をある視座に沿って分解し、新たなイデオロギーを見出し、作品外(社会や文化といった外領域)に接続する知的な試みであり、その遠大な思弁を展開するためには“テキスト”を用いる他なかったのだ。映画についての所感を述べるためにYoutubeやブログといったプラットフォームに依拠せざるを得なかった映画レビューとは似て非なるものだ。

寺山修司は『言葉が眠るとき、かの世界が目ざめる』の中で「人生を語るのは話しことばで、政治を語るのは書きことばだ」と述べたが、その論を援用するならば、映画作品そのものを語るのが話しことば(Youtube)であり、作品そのものから発したイデオロギーを論じるのは書きことば(映画評論)であるはずだ。だが、現実は両者が倒錯関係に陥っている。どうしてこうなったのか? 昨今のSNS言論を取り巻くこの状況は、文脈(コンテキスト)の固着化と作品(テクスト)の度外視に原因があると思う。

トッド・フィールドが監督・脚本・製作を務めた2022年公開の映画『TAR/ター』では、ケイト・ブランシェット演じるカリスマ音楽家:リディア・ターが内破してゆく姿が描かれる。ウディ・アレン監督作『ブルー・ジャスミン』で、ゆるやかに自壊してゆく女を怪演してオスカーを受賞したケイト・ブランシェットだが、その壊れっぷりは本作でも健在で、音楽に精通したカリスマが自己の幻影に苛まれて凋落してゆく姿は、憐憫を通り越して恐怖すら感じる。

映画の序盤、リディアがジュリアード音楽院で客員教鞭をとるシーンがある。ひとりの男子生徒が、とあるクラシックの巨匠の指揮には興味がないと発言し、これに対し、リディアは徹底的に論駁する。クラシックの大巨匠の女性蔑視的な価値観が理解できないと苦言を呈す男子生徒にリディアは言う。ジェンダー観やアイデンティティー、政治性といった表面的な違い超えて、その下にある音楽に目を向けろ、と。文脈(コンテキスト)と音楽を切り離し、音楽そのものと向き合えと喝破するのだ。

リディアが男子生徒を口撃するこの場面は、後に本意を無視して撮影/編集され、SNSにアップロードされて炎上する。文脈の遮断を論じた彼女が、文脈を無視したSNS動画で追いやられるという展開は、じつに皮肉が効いている。映画の終盤、すべてを失ったリディアは映画の冒頭では想像できないような環境で楽団の指揮を取る。心理的な圧迫が身体にも異常をきたすほど人間として破綻してしまっても、彼女は音楽と向き合い続ける。世間から何と非難されようと、周囲がどう思おうとお構いなしに音楽と向き合う。自らの主張を体現する。

文脈(コンテキスト)と音楽を切り離し、音楽そのものと向き合うべきだというリディアの主張は、ポリコレ/反ポリコレの二元論的な切り口でしか作品(映画を含む)を語れない昨今のSNS言論に通じるものがある。

どんな文脈の中に位置づけるかによって作品の見え方は大きく変わる。先日読んだ渡辺 将人著『アメリカ映画の文化副読本』には、アメリカ映画を観る際の文脈が大量に書かれていた。例えば、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『アメイジング・スパイダーマン』など、学園を舞台にしたアメリカ映画では定番シーンと言えるプロムの描写も、日本的な学園祭の延長という文脈で観るか、大人の階段を登る米国人のイニシエーションという文脈で観るかによって、同じプロムでも見え方は違ってくる。

昨今のポリコレ/反ポリコレ的な切り口で映画を語るSNS言論空間には、こういった文脈と作品を峻別するという視点が欠如している。ポリコレ/反ポリコレという特定の文脈にのみ執着し、その他の文脈を放棄し、作品そのものからも目を背ける。これが本来の映画の楽しみ方なのだろうか?

『TAR/ター』のリディアと同じ主張をした哲学者がいる。それがロラン・バルトだ。文章(テクスト)は書かれた瞬間から作者の手を離れるのだから、文章はあくまで文章そのものとして読まれるべきである──これがロラン・バルトが唱えたテクスト論である。一般的には、作者の存在を意図的に排除することで、文章(作品)を読者の解釈に委ねる、と解釈されるが、これは裏を返せば文章そのものを玩味するだけのリテラシーを読者に要求することでもある点には留保が必要だ。

文脈(コンテキスト)と作品(テキスト)を峻別しろ、と『TAR/ター』は言う。これと真逆のことをやってのけたのが『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』である。非オタク層・ライトオタク層にまで人口に膾炙したエポックメイキングが、大衆(マス)という文脈に迎合し、製作意図という文脈の中で消費される前提で作り上げた世紀の失敗作。それが『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』にほかならない。

淀川長治さんの「どんな映画でも3秒だけ良いシーンがあれば、それは良い映画だ」を金科玉条に掲げ、ふだんは絶対に作品の酷評は公言しないと決めている僕だけど、今回ばかりは許してほしい。そして何度でも言う。これは駄作だ。生まれるべきではなかった映画だ。

エヴァンゲリオンがTV放送開始された1995年に僕は生まれた。作品をリアルタイムで観ていないが、それでも14歳の時──碇シンジの設定年齢と同じ歳──にTVシリーズを観て自分の価値観/世界観にセカンド・インパクトをもたらした、思い出深い作品である。高校生の時には学校をサボって近所の映画館に『シン・エヴァンゲリオン劇場版Q』を観に行った。僕の思春期はエヴァと共にあった。そんなエヴァがついに終わりを迎える──そう大々的に銘打って2021年に公開されたのが『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』だった。

この作品を僕はつい数日前に観た。劇場公開時、世間にエヴァ旋風が吹きつけるなか、そのムーブメントから背を向けた。予告編すら観なかった。何を隠そう、自分の思春期の終焉を突きつけられているような気がして、観るのが怖かったのだ。そんな青臭いセンチメンタリズムと折り合いをつけるのに3年かかった。そしてようやく観た。つい数日前に。TVシリーズ最終話で当時14歳だった僕に哲学的実存の問題を投げかけ、旧劇場版でヨーロッパ映画への憧憬を呼び起こした「エヴァンゲリオン」の最終章である。気合いを入れて、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』過去作を全部見直してから満を持して観た。

観終わって後悔した。観なければよかったと。こんな終わり方をするくらいなら、僕の中でエヴァを永遠に未完のまま放置しておけばよかった。本気でそう思った。

僕がエヴァ完結編に落胆した理由は大きく2つある。1つ目は、作り手(庵野監督)が明らかに観客の顔色を伺いながら作ったのが見え透いていること。2つ目は、そういった製作者(庵野監督)の意図・主張をNHKのドキュメンタリー番組で披瀝していることだ。

後者については、いささか不公平な弁であることは承知している。なにせ、宮崎駿監督なんて、新作を公開するたびにNHKで製作ドキュメンタリーが作られているんだから。国民的アニメ「ジブリ作品」なら宣伝と割り切れる。だれど、今回は何て言ったってエヴァだ。視聴者に一切迎合しない、フランス映画的な突き放した語り口を唯一無二の世界観で描き上げた日本アニメ史のエポックメイキング。フロム・ソフトウェアの傑作RPG『ダークソウル』シリーズと同様に、沈黙することで多弁に物語る──それがエヴァという作品と僕たち観客の暗黙の了解だったはずだ。その不文律をエヴァは、ひいては庵野監督は反故にした。

映画の序盤から中盤にかけて、塞ぎ込んでいたシンジは案ずるより産むが易し的な、“とりあえず労働”することで希望を見出し、生の実感を獲得していく。

「今まで小難しいことばっか言ってきたけど、まぁ、あんま深く考えずに仕事して家庭もって生きろ。それが一番幸せだぞ」

ここに来て突然、そんな昭和の高度成長期的なメッセージを放り投げられて、「旧劇場版こそが至高」「これぞエヴァンゲリオン」と信じていた僕は、このメッセージをどう受け止めればいいのか分からなかった。受け止めきれなかった。作品(テクスト)と向き合おうとしても、過去作と比較した時のあまりの温度差に、否応なしに製作者の思惑が見え透いてしまうのだ。

恋愛・結婚・自己実現──それだけが人生じゃない。そう言って、根暗で陰キャな思春期のオタクを慰撫してくれるのが、その受け皿たり得るのがエヴァという作品だったはずだ。

この非オタク層(一般人)に目配せするような安直なメッセージに加えて、終盤、アディショナルインパクトが起こってからの懇切丁寧すぎる説明セリフの数々…今なにが起きて、どんな気持ちで、どうなっているのか。そんな説明が滔々と語られる30分間。

どうして、こんな終幕になったのか。それは庵野監督が『TAR/ター』のリディア・ターとは真逆の存在になってしまったからだ。つまり、観客=大衆(マス)の顔色を窺って大勢が納得できる最小公倍数的な解決を模索した結果、ドキュメンタリー番組で放送された製作の苦悩と葛藤・製作意図といった文脈の上で消費されることを前提に作品を撮ってしまったからだ。

文脈(コンテキスト)と作品(テクスト)は峻別されるべきだ。作品は作品として鑑賞され、玩味され、観客ひとり一人の解釈によって検証されて然るべきだ。だが、作品の前提として、製作者の意図・苦悩という“文脈”を与えられた作品は、ドキュメンタリー番組というスクリーン外の要素がすでに作品のコンポーネントと化している。ここに『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』の失敗がある。旧劇場版でアスカやレイに惚れ込むオタクたちをあげつらったあの気概は雲散霧消し、非オタク層(一般人)にも浸透するメッセージを優先した成れの果てがこの作品だ。

昨日、Xでとある投稿が流れてきた。その投稿の主旨はこうだ。「どうして日本映画は役者がボソボソと台詞を喋り、唐突にベッドシーンが入るのか。もっと見やすく、わかりやすく、観客のことを考えて映画を作れないのか」

この主張も確かに一理ある。だが、こういった批判/非難を恐れて観客に迎合するのは、まぎれもなく文脈(コンテキスト)と作品(テキスト)の混合である。こういう文脈上で観てください──作品(テクスト)そのものと向き合おうとしても、そんな製作者の思惑が浮かび上がってくるような作品。

この種の映画でもショービジネスとしてはそれなりに成績を上げるのかもしれないが、ひとりの映画ファンとして、こういう映画がスタンダードになっていくのは納得がいかない。

文脈(コンテキスト)と作品(テクスト)を峻別する感性が昨今のSNS言論には欠けている。ポリコレ/反ポリコレといった二元論的な文脈から脱却し、作品のみに焦点を当てること。これが今のSNSユーザーに要請される態度である。とはいえ、一億総評論家の現代。多様な解釈やら感想が横溢し、それをクリエイターが憂いた結果、固定された文脈上でしか消費できない作品が生まれる。まるでウロボロスだ。悪循環の堂々巡り。かといって、SNSがサイバー空間におけるアイデンティティーと化した現代でSNSを遮断することは不可能だ。では、どうすればいいのか。

SNSと適切な間合いを取るより他にない。小林正樹監督の映画『切腹(1962)』の中で描かれる侍同士の決闘シーンのように。擦り足でじわじわと間合いを詰め、刀の切っ先が届くか届かないかの絶妙な“間合い”を探ること。

Xの映画界隈のアカウントでも、ポリコレをはじめ、若い女子に粘着する老害オヤジや、好きな映画作品を巡って痛罵し合う輩まで、いろんな手合いが跋扈している。映画作品そのものではなく、映画を触媒にして、誰かとコミュニケーションすることを目的とした馴れ合い。これが間違った映画の消費方法だとは思わない。僕はそこまで映画原理主義者ではないし、蓮實重彦さんほど図太い神経を持ち合わせていない。ただ、こういった手合いを見ていると哀れだとは思う。

議論は大切だが、昨今のSNS言論を支配するポリコレの潮流は議論の域に達していない。みんな、今一度冷静になるべきだ。今のSNSに、僕たちに必要なのは「話し合い」ではない。「黙り合い」なのだ。

作品情報

シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇庵野秀明 総監督/カラー 2021・劇場版(完結編)新劇場版シリーズの完結編。興収102.8億の社会現象作。本稿ではSNS言論を論じる補助線として参照する。evangelion.co.jp ↗ TAR/タートッド・フィールド 監督/ケイト・ブランシェット主演 2023・GAGA配給世界的指揮者の凋落を描く心理劇。キャンセルカルチャーと権力を主題化し、本稿のSNS論の核となる。gaga.ne.jp ↗

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