Hush-Hush: Magazine
アラモの蛇

アラモの蛇

かつて親友だった、あなたへ

HBO製作のドラマ『Euphoria/ユーフォリア』シーズン3の中で忘れられないシーンがある。ストリップバーの用心棒ビショップが、ゼンデイヤ演じる主人公ルーに逸話を語る場面だ。

かつて店に勤めていたダンサーのひとりにニシキヘビを飼っている女性がいた。彼女はヘビを溺愛していた。勤務中はヘビと共に舞台に立って踊り、帰宅後は寝床をともにした。人語を発さぬという違いがあるだけで、彼女にとってヘビはまぎれもなく恋人や家族に等しい「良き理解者」だった。

だが、ある日突然、ヘビは彼女が与える餌をいっさい食べなくなった。焦燥しきった彼女は動物病院で診察してもらい、その他考えつく限りの方法でヘビの食欲が回復する途を模索した。だが、ヘビは彼女が与える餌に見向きもしない。事の真相は意外な方向からもたらされた。

ヘビの生体に明るいバーの経営者アラモの知人によれば、ヘビの断食が意味するところはひとつ──彼女のことを飼い主ではなく「餌」だと認識しているからだという。ヘビは食欲が消尽したわけではなかった。事態はその逆で、人間の女性という「巨大な餌」を満腹に食するために、それに匹敵する空腹をこしらえるために食時を拒んでいたのだ。真相を知った女性はすぐさまヘビを手放した。

一連の経緯を聞き知ったアラモは、このヘビを彼女から1万ドルという破格の値段で買い取った。

「人の本性は誰にも分からない」

その教訓を自己の戒めとして胸に刻むために……

かつて江戸時代を開闢し、戦乱の世に太平をもたらした徳川家康は、三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗を喫した。比類ない機動力を誇る武田の騎馬隊に為す術もなく翻弄された徳川家康は、この時、自らの死を覚悟し、死の可能性に恐懼した。後日、この時に抱いた恐怖心を忘れぬために、恐怖と苦悶に歪んだ自らの坐像を絵師に描かせ、その絵を生涯手もとに置いたという。アラモにとってのヘビは、家康にとっての肖像画だった。

人の本性はわからない。その心理を言葉で理解しているのと実際に体感するのは次元が違う。今週、ぼくの頭にはアラモのヘビと家康の肖像画が去来していた。それというのも、15年来の親友(だと僕が一方的に思い込んでいただけかもしれないが…)を、たった一通のLINEで失ったからだ。

経緯をいちから語れば2時間ほどかかる。端的に言えば、「long story…」「It's complicated…」。要するに、洋画ファンおなじみの台詞がしっくりくるほどに、事態は輻輳しており、ここでそれらの経緯を縷々と述べる紙幅はない。ただ、自分の気持ちが一方的に断絶され、拒絶され、二の句を継ぐ間もなく人格を否定されたことに対して気持ちの整理がつかないので、こうして言葉として記そうと思ったまでのことだ。

今週、月曜日の夕刻。仕事がひと段落ついた頃合いに友人から一通のLINEが届いた。文明の利器というのは利便と当時に害悪ももたらすもので、僕の左手につけたApple Watchはその文面を猫の額ほどの極小ディスプレイに即座に表示した。もうLINEをブロックしたので正確な文面は記すことができないのだけれど、その概略は次のようなものだった。

「お前のXのポストを見た。自ら選んで転職したはずなのに、何を弱音吐いてんだ。バカじゃねぇの」

口論をしたこともなければ喧嘩もしたこともない相手から唐突に「バカ」と言われて動揺した。けど、それ以上に僕はオンラインにおける自分の振る舞いが急に恥ずかしくなった。友人の指摘はもっともだったし、こうして諫言してくれる相手がいなければ、僕はXの鍵垢でダラダラと毒を吐き続けるという卑怯な振る舞いを飽きもせず続けていたに相違ない。

端的に言って、友人の言葉が身に沁みた。顔を張り倒されたような気がした。かつて家康がそうしたように、僕はこの時に抱いた動揺を自己の戒めにしようと心に誓った。そうして月曜日の夜はこれまでの自己の振る舞いを内省し、いささか悄然とした心持ちで床についた。

ここまでは、自分で言うのも何だが美談調だと思う。勘違いした経営者が自費出版で上梓する「自伝」に掲載されていそうなくらい、薄ら寒くなるほどチープな訓話。だが、事態は数日後に一変する。

互いを否定することもついぞなかった間柄の友人から、いきなり届けられたLINEには「バカ」という言葉が書かれていた。面と向かってはおろか、LINEのやり取りですらそんな悪口雑言を交わしたことすらない相手が、いきなり「バカ」という強烈なパンチワードを送ってきた、という事実。僕がこの事態の不穏さに気づいたのは翌日で、そのさらに翌日には友人のXアカウトに次のような投稿がなされていた。

X で見るhttps://x.com/JohnYoshi4/status/2090884156377239576

事ここに至って、どうやら事態は僕が考えていたのとは随分違うらしい、と気づき始めた。てっきり僕の自堕落さを戒める諫言かと思っていた件のLINEは、それを口実にした個人攻撃だった。入り組んだ事態を解消するのにテキストは不向きだ。言葉が表現できるのは無数に広がった可能性のごく一部に過ぎないし、人が感じたことや考えたことの一部を拾うことしかできないのだから。こういう時は電話に限る。そういうわけでLINE通話を試みるも峻拒され、あまつさえ、さらなる悪口雑言が送られてきた。

どうやら友人は僕に対して怒髪天を衝くいきおいで激昂しているらしい。だが、原因は皆目見当もつかない。事の発端は僕のXでの振る舞いを諌める文面で、そこから個人攻撃をするほどの激昂へと至るまでの経路が絶無なのだから。その後、何度か通話を試みるも、いずれも拒絶され、出どころが不明の憤怒と罵詈雑言は勢いを増すばかり。

これらの状況と友人がXに投稿した内容を併合するに、僕はひとつの結論に至った。

どうやら、友人は僕に対して怒りを抱いているらしい。その原因も彼が置かれた現在の状況も不明であり、通話という意思疎通は閉ざされている。かてて加えて、これまでの友人の言動からは想像もつかない言動がなされている。おそらく友人が僕に望むのは憤怒の矛先を向ける対象となり、その激情を黙然と受け入れるサンドバックに成り下がることであり、ようするに僕に対する全面的な否定なのだろう。だが、彼の心理・思量はわからない。言葉を交わすことが、こうして書かれた静的な文字言語ではなく、情感を伴った肉声言語では叶わないのだから。

かつて20歳の頃、友人と二人で「いつか海外で映画を撮ろう」と誓い合った。お互いに世間知らずのガキだった。夢を見続けてさえいれば、いつか夢は叶うのだと、ハリウッド映画が産業として成立してこのかた1世紀もの間、鳴り物入りで喧伝してきた幻想を幼気にも信じ切っていた。だが、現実は違う。

僕と友人は20歳からの数年間、寝食を共にし、夢に向かって邁進した。僕はバーに6年間勤めながらシナリオの勉強を続け、ようやく九州の某アダルトゲームメーカーにシナリオライターの職を得た。けれど現実は甘くない。ランサーズで募集しているライター業でさえ文字単価0.5円のご時世に、エロゲメーカーのシナリオライターの給料といえば雀の涙で、手取りは15万円だった。

1年半勤めたけれど、貯金額100万円が底をつき、生活するために退職を余儀なくされた。そうして再び夜の世界に戻った。人間の欲望をごった煮にしたような、ダンテの『神曲』で描かれる煉獄のような世界。それが夜の世界だ。欲望にまみれ、欲望をレバレッジして金を稼ぐ。そこで機能する条理はただひとつ──金を稼ぐこと。

プチ整形した女の子が引きも切らずにキャバクラの門戸を叩くのは、金が欲しいからだ。そこで女の子を「商品化」して金を稼ぐ男たちもまた、金を稼ぐことに余念がない。金と欲望だけが支配する世界。この仕事を50歳まで続けている自分を想像して、吐き気を催した。だから、心機一転してまっとうに生きることを誓い、現在の僕がある。

よくある話だ。社会を知らないがゆえに夢想できた「輝かしい夢」。それが現実の酷薄さに直面した時、子どもは幻想から醒め、大人の階梯を登り始める。シナリオライターに転身した時は、僕の中にもまだかすかに野心や希望めいたものが燻っていたけれど、今思えばそれすらも「甘え」でしかなかったのだ。

現実と理想の相克。かつて無想した甘美な夢が現実の厳しさに晒されるたびに、僕は少しずつ大人になれた気がする。夢を見ることを止め、現実を生きるということ。ありもしない仮構に、他人が描いた他人の理想や幻想に逃げ込むのではなく、艱難辛苦も含めて自分の人生を引き受けること。それが生きるということであり、自分の人生を生きることの意義である。

かつての友人よ。僕が九州を去った後、あなたの境涯に何があったのかはわからない。それを知る手立ては、今はもう失われてしまっているのだから。一度故郷に帰ったあなたが、福岡に来る決意をしたのは、あなたの意志であり、あなたが下した選択だ。

大阪で袂を分かって後、あなたは「いつか映画を撮れたら」と口にはしたけれど、それが人生の最大目標であるような口吻は一度たりとも見せなかった。福岡空港まであなたを迎えに行った時の情景を今でも昨日のことのように覚えている。喫煙所で二人して「マズいよな、これ」と言い合うながらIQOSをふかしたことも、その時の情景もありありと思い描くことができる。

だが、その後、一度たりとも、あなたは「映画を撮りたい」などとは口にしなかった。Youtubeを始めた際にも、僕は何度も意向を確かめたはずだ。

「お前みたいに喋れないから、しばらくの間は、俺やめとくわ」

僕が単独でチャンネルを軌道に乗せると宣言したあの時、あなたはそう言って賛意を示したはずではなかったか。

かつて「いつか海外で映画を撮ろう」と互いに誓いあった、あの幼気な夢を、決して叶わぬと知りながら、それでも無想せずにはいられなかった二人の夢を、あなたの人生の絶望感を語る言い訳として利用するとは言語道断であろう。

詳細は知るよしもないが、おそらく今のあなたは人生に絶望しているのだろう。自分の来し方行く末に漠たる不安を抱き、その道行きが自分でもわからないがゆえに苦悩しているのだろう。あなたが絶望していることは、Xの投稿からそれとなく伝わってくる。だからといって、かつて二人で語り明かした青臭い夢を、自分の正当性を主張するために牽強付会するような愚行は慎んでいただきたい。

今のあなたが置かれた状況も、あなたがこれまでに下してきた選択と決断の累積、その結果に過ぎず、「自己責任」という便利ワードで圧縮されてしまう類のものでしかない。

あなたが怒りの矛先を向けるべきなのは、「自己責任」という言葉であり、自分に非はないと抗弁するのならば、「自己責任」という安直な言葉でこの世の不条理すべてを転嫁しようとする現代を取り巻く社会状況の方であり、今般の社会をもたらしたより高次の歴史の方をこそ謗るべきではないか。

たしかに、新自由主義経済とそれがもたらす個人主義は、すべてを個人の自己責任に帰する。この辛さはどうしようもない。それは分かる。だが、それを個人攻撃に、いわんや「20歳の頃に語り明かした夢を、今でも追い求めている」というポージングで貶めるのは断じて許さない。

僕はあなたの自堕落な性格も、自堕落な生活ぶりも、傍若無人な生き方も知っている。そんな身の処し方で映画監督になれるのならば、この世の人間の大半は映画監督になれるだろう。もし、あなたが今だに映画監督を本気で志しているのだとすれば、あなたは映画産業と映画作家を愚弄している。

最後にひとつ。物事を考えるためには知識が要る。先達たちが残した知識のうえに、ようやく新しい考え、自分の考えが生じる。

「ただの個人意思」(おそらく意志の誤記だと思うが)と言う非難は、そもそも非難としてすら機能していない。自分の思量や情感について語ることが、作品について語るということであり、あなたのいう「個人意思」とやらが「意志」を指しているのだとすれば、フランス現代思想が繰り返し問うているように、そもそも「自由意志」なるものは存在しない。

大御所バンドが唐突に解散する、という非報を耳にするたびに、その理由を邪推しては納得しかねていたのだが、今になると少しだけ分かる気がする。人の本性は誰にも分からない。だから、一枚岩のように見えていたバンドであっても、ある日突然、空中分解し得るのだ。

僕のなかで最も古い友人だった、あなたとこのような形で別れることになるのは慙愧の念にたえない。 もう言葉を尽くす段階は通り越した。 だから、最後に、一方的にだけれど、餞の言葉を送って離縁とさせてもらう。

今まで、ありがとう。 僕の友人のなかで最も貴重な存在だった、あなたへ。

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